私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。(哀歌3:22〜23)
聖書のことばには、力があります。人を生かすことばです。
新聞の宗教欄に、「周五郎と聖書」と題する一文が載っていました。
山本周五郎夫人、清水きんさんの回想によると、周五郎が聖書を読み返していたということです。周五郎は少年時代、父に連れられて教会に通ったことがあるそうです。その後もさまざまな形で、聖書を読んでいました。
ところで、この教会に通った時期は、父親がお金に困って、周五郎をだまして、質屋へ丁稚奉公に出し、その給金を巻き上げていた時期でした。幼い彼は、この質屋を自分の親戚だと信じ込んでいました。しかし、自分が売り飛ばされたということがやがてわかり、絶望の底に投げ込まれてしまいます。後に父親が死んだ時、彼は葬式にも参列せず、いきなり現れて、香典を鷲掴みにして姿を消しました。十三歳から二十歳近くまで、人間の生涯の大切な時期を売り飛ばされた憤懣と悲しみがあったからでしょう。
その父親が彼を教会に導いたのです。子どもを売り飛ばそうとして教会のベンチに座り、神に祈っている父親の側で、彼もまた神の前にうなじを垂れていました。見栄っ張りで、屁理屈ばかりこねているくせに、何度も女に失敗した父。その父が、子どもを売り飛ばすことに、いささかの罪の思いにかられて、教会のベンチに座ったのです。それが周五郎がキリスト教と接した事情でした。
彼は生涯、この父に対する憎しみを語ることはありませんでした。当然、父に対する憎しみが、「何がキリスト教だ」となっても不自然ではないような条件です。しかし、彼はキリスト教会にかかわっていきました。聖書を読み返し続けた山本周五郎は、聖書の中に何を見出したのでしょうか。
まず第一に、人間の罪を見たのです。悲しみを見たのです。
自分を売り飛ばした父、そして自分の苦悩を語らなかったこの作家の苦悩は、どんなに深く悲しかったことでしょうか。しかし、彼は罪を赦し、悲しみを癒すキリストの愛と涙を、聖書の中に見出したのではないでしょうか。キリストは悲しみの人で涙を知っていました。そのキリストの愛に、きっと山本周五郎の心は洗われたのでしょう。多くの作品を残し、しかもそのすべてが人間の情感を、悲しみを、そして勇気を描いているのは、聖書を読み返し続けたからなのでしょう。
そして、彼が聖書を読み返すということは、自分が流した血や涙と面と向き合うことを意味していたと結んでありました。
聖書は語っています。イエス・キリストは私たちの悲しみや罪、病気や悩みのすべてを背負って、十字架の上で死なれた、と。その十字架の血のあるところ、すべての罪はきよめられる、と。その愛のあるところ、どのような傷も癒される、と。いいえ、そればかりではありません。私たちもまた、そこから、きよめる人として、癒す器として、出て行くことができるのです。
今日、あなたもいかがですか。イエス・キリストの愛に触れて、新しい日々の歩みをお始めになりませんか。希望に向かう新しい人生がそこに始まるのです。
幸せをお祈りします。
榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、エリムキリスト教会主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。