別の安息日に、イエスは会堂にはいって教えておられた。そこに右手のなえた人がいた。・・・それで、手のなえた人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。・・・イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。・・・(ルカ6:6〜11)
2010年のノーベル平和賞を、服役中の中国の民主活動家、劉暁波氏が受賞しました。中国では犯罪者であっても、一方では、現代の社会で基本的人権や政治、宗教の自由のために活動している人だから平和賞に値すると、正反対の評価を受けているわけです。人の思想や知恵には幅があり、一概に「これがいい」とは言えないのです。
こういう事態は、今に始まったことではなく、二千年前、イエスが体験された出来事はまさにそうであり、その極限でした。イエスは、命の与え主である神からの救いの道を人々に示して下さったにも拘わらず、憎まれ、捕らえられ、罪のない神の御子でありながら、最も重い犯罪者として十字架に掛けられ、死なれました。しかし、イエス・キリストの死は、人間ひとりひとりの罪を取り除き、悪の力から解放するためであったのです。
今日開いた聖書も、イエスのご生涯のエピソードのひとつです。ある安息日、人々が集まっている所で、イエスは神の教えをはっきりと語っておられました。イエスの周りは黒山の人だかりでしたが、イエスの揚げ足を取り、捕まえる口実を見つけてやろうという思いで集まっている人もたくさんおり、神の救いの道を求める麗しい信仰だけではなく、緊張感や敵意までそこにあふれていたのです。私たちの魂を贖う素晴らしい神の御言葉が、神のひとり子イエス・キリストの口を通して、人々の心に響くように語られた場で、実は、人の考えは様々だったのです。
今日、教会に集まった私たちは、この礼拝の中で、本当に救い主であり癒し主であるイエスを慕い求める姿勢で、イエスを礼拝しているでしょうか。それが肝心なのです。私たちが主によって癒される前に、二つの大切な事柄を心に刻みつけ、自分のものにしたいのです。
1.神の御心にかなうことを選び取る
パリサイ人や律法学者たちは、ユダヤ人が守っていた律法で定められた、神を礼拝する安息日に違反する行動や言葉がないかと神経を研ぎすませ、また、ある人々は、単なる好奇心で、噂に高いイエスがどんなことをするのか見物しようと集まっていました。イエスの周りにいる人々の心の中には、様々な思惑があふれていたのでした。そのような状況の中でイエスは、「あなたがたは色々な考えを持って集まっているが、神を礼拝すると定められた日に、一体何が神の御心にあって良いことなのか、神が喜ばれる善を行なうことなのか、それとも、神に敵対する悪意を実現することなのか。病んで苦しんでいる人々の命を救うことなのか、それとも失うことなのか」と問いただされたのです。
どんなに賢く、正論を吐いているようであっても、所詮、私たちは弱い、いい加減な人間です。だからこそ、私たちは、神を信じる信仰に価値を見出します。では、私たちは、何を一番大切にすべきでしょうか。イエスの答えははっきりしています。神が喜ばれることをなすことです。
情報化社会の中で、色々な考えを抱くのは自由ですが、人の知恵や、自分のわがままで終わっては、神の恵みは私たちのものとはなりません。感情がすっきりするとか、法律の解釈が合うとか、あの人がこう言うからとかではなく、それを超える神の御心にかなうことを選び取り、実行しましょう。
2.神の御心とは、魂の救いと癒しである
放蕩息子の物語では、どんなに罪深いことをした弟息子であっても、帰って来たのだから喜ぼうじゃないか、とイエスは言って下さいました。人からお金をむしり取るようにして生きていたザアカイが神を認め、神の救いを受け入れた時には、失われていた人が見出された、とイエスは喜んで下さいました。
神の御心とは、何でしょうか。答えは明白です。罪を持つ人が救われ、病める者が癒されることです。それを神はなして下さいます。イエスは、罪人を探し出しては救い出され、病に苦しむ人々を見つけられては、一人、また一人と確実に癒されました。「あなたの弱っている手を伸ばせ」と言われたイエスの御言葉に従って、男が恐る恐る、なえていた手を伸ばした瞬間、彼の肩から力が流れ込み、手に力が満ちあふれ癒されたのでした。キリストの御業は、私たちの世界で事実となります。イエスは「手を伸ばせ」と癒しのための御言葉を語って下さいますから、私たちはそれを受け止めて癒されようではありませんか。この朝の礼拝の中で、私たちの上に、神の御心が実現されます。
万代栄嗣(まんだい・えいじ)
松山福音センターの牧師として、全国各地、そして海外へと飛び回る多忙な毎日。そのなかでも宗教を超えた各種講演を積極的に行っている。国内では松山を中心に、福岡、鹿児島、東京、神戸、広島、高松にて主任牧師として活動中。キリスト教界のなかでも、新進気鋭の牧師・伝道者として、注目の的。各種講演会では、牧師としての人間観、ノイローゼのカウンセリングの経験、留学体験などを土台に、真に満足できる生き方の秘訣について、大胆に語り続けている。講演内容も、自己啓発、生きがい論、目標設定、人間関係など多岐にわたる。
また、自らがリーダー、そしてボーカルを務める『がんばるばんど』の活動を通し、人生に対する前向きで積極的な姿勢を歌によって伝え続け、幅広い年齢層に支持されている。
国外では、インド、東南アジア、ブラジル等を中心に伝道活動や、神学校の教師として活躍している。