心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3:5〜6)
1.自分の悟りに頼るな
もう35年ほど前の話になりますが、私はオーストラリアの大学に留学していたときに大学内のキリスト教伝道団体・ナビゲーターの集会に導かれました。みなさんご承知のように、ナビゲーターは聖句暗記で有名です。そこで一番初めに暗記させられたのが、今日の中心聖句の箴言3章5節と6節です。聖書知識が全くないのに、いきなり英語で聖句暗記をさせられましたので大変苦労したことを覚えています。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」と一生懸命暗記しようとしましたが、それまで30年以上も自分の悟り(知識、知恵)にたよって生きて来ましたから、心の中でものすごい大きな抵抗がありました。「自分の悟りにたよるな」ということは、「自分を放棄せよ」ということではないか。それは自分以外の何者かの「あやつり人形になれ」ということではないか。そんなことはとてもできるはずがないと心の中で抵抗していたのです。しかし当時の私は、大学を出ても、弁護士になっても、外国留学をしても、大して幸福でない自分に幻滅していました。一緒に聖書を学んでいるクリスチャンたちが、いつも喜々として自由で幸福そうなのが、うらやましく思われました。
そこで、彼らの信じている聖書の聖句が本当かどうか試してみようという気になりました。生活の中で何か決断しなければならないときに、「私はこうしたら良いと思うが、神がいるとしたらどうするだろうか」と考えるようにしたのです。そして「神がいるとしたら、きっとこうするだろう」と思われることを実行していくうちに、次々とそれが良い結果を生み出すことを体験しました。
初めの数回は偶然が重なっただけだと思っていました。しかし、あまりにもそのようなことが何度もつづいて起こりましたので、「目に見えない導き」が存在することを信じざるを得なくなりました。自分が神との交わりを断たれた者であることを自覚し、キリストを信じて神との生きた交わりに入れられるまでにはその後何年かかかりましたが、その時から「目に見えない導き」の存在を信じることによって、聖句の確かさと神の存在を信じるようになりました。
そして、「自分の悟りにたよるな」ということは、決して自分を放棄したり誰かのあやつり人形になったりすることではなく、あくまでも自分の自由意志によって主に拠り頼み、主の導きに従って自分の知性を生かし用いることであることがわかってきました。要するに、「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」ということは、神すなわち霊(スピリット)の領域(次元)の事柄であり、自分の悟りすなわち人間の知性(マインド)の領域(次元)を超越した領域(次元)の事柄であることがわかってきたのです。
2.どこにおいても主を認めよ
そのようなわけで、私の信仰は箴言3章5節、6節をもってスタートしましたが、これは私の生涯にわたって持ちつづけるべき聖句のひとつとなりました。その理由は、物事がうまくいかないときに、その原因をたどってみると、ほとんどの場合、自分の悟りにたよって行動していたことに気がつかされます。ときどきは主に拠り頼むのですが、多くの場合に自分の悟りにたよってしまっているのです。
しかし、みことばは、「あなたの行く所どこにおいても主を認めよ」と言っています。「いつでもどこでも主がおられることを意識して生活しなさい」ということです。これを実行することはなかなか難しいことです。でも自分の悟りにたよったらつまずきますから、どうしても実行せざるを得ません。特に弁護士という相手方と対決しなければならない場面の多い闘争的職業柄からも、より多く主に拠り頼む必要があったと思います。
「いつでもどこでも主を意識しよう」と、徐々にではありますが、自分なりにできる限り多くの時間を祈りとみことばの学びに費やすようになりました。そして今では、毎朝寝床の中で1時間祈り、出勤前に喫茶店で最低1時間みことばを学び、通勤電車の中で祈り、仕事中も合間を見ては事務所から外出して祈りの時をもち、夜寝る前30分は家族とともに祈り、毎週木曜日の祈とう会には必ず出席し、隔週火曜日のお昼には私の事務所の部屋で祈とう会を行い、土曜日は半日1人になって、祈りとみことばの学びに費やすようになりました。それに加えて、毎週日曜日は教会のバイブル・スタディに参加し、毎週月曜日の朝はホテルのレストランで数人の仲間と聖書の学びの時をもっています。
わたしはみ言葉を与えられて、これを食べました。み言葉は、私の喜びとなり、心の楽しみとなりました。(エレミヤ15:16)
とありますように、今ではこれは「やらなければならないからやっている」のではなく、「楽しいからやっている」のです。まことに、「あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある」と詩篇16篇11節に歌われていますように、キリストと共に過ごし歩むことにまさる喜びと楽しみはありません。
仕事中も福音伝道のために文書をコピーしたり、いろいろな方々に手紙を書いて送っていますから、自分でもいったいいつ仕事をしているのだろうか、と思います。しかし、まことに不思議なことに、祈れば祈るほど仕事はうまくいくのです。祈りの中で仕事をしていますから、仕事の実働時間はかえって多いかも知れません。祈りの中で神さまから指示をいただいて、自分の考えや方針をまとめていくのです。私がやれない分は全部、神さまが、直接やってくださるか、他の方々をとおしてやってくださいます。「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ずなる」と箴言16章3節にあるとおりです。
このようにして祈りとみことばを第一とする生活をつづけているうちに、次第に神の驚くべき恵みを経験させていただくようになりました。昨年は年間聖句として「わたしがあなたのためになそうとしていることは驚くべきことである」との出エジプト34章10節のみことばが与えられましたが、昨年につづいて今年も主の驚くべき恵みをたくさんいただいて来ました。今日はそのうちで、私が主の導きに従ってした献金の驚くべき恵みについてお話ししたいと思います。
3.ロシア・東欧への聖書贈呈のための献金
共産主義国家連邦ソ連が崩壊するとともに、ベルリンの壁がくずされ、ロシア・東欧各国で一斉にキリストの福音に対する門戸が開かれました。人々が福音の伝道集会に殺到し、続々と救われる人々が起されました。この霊の飢えかわきに対応するために、世界のキリスト教国から聖書が送られることが急務となりました。1機十数億円もするジェット戦闘機を購入して戦争に備えるよりも、1冊でも多くの聖書が贈呈されて、人々の魂が救われて真の意味での国際平和が達成されていったら、こんなすばらしいことはないと、私もクリスチャンの1人として真剣に祈ってきました。
そのようなときにある日本の宣教団体から、ロシア・東欧に聖書を送る大きなプロジェクトの献金要請の手紙が届いたのです。それは私にとってとても大きな金額でした。私はこれを読んで感動して、事務所の部屋で「イエスさま、ぜひこのプロジェクトを速やかに実現してください」と心から祈りました。すると、イエスさまから、「あなたがそれほど願うなら、あなたがこの献金の全部をささげなさい」と言われたような気がしました。私はとっさに、「主よ、とんでもないことです。これは数千人を対象とした大勢の方々への献金要請であって、私ひとりだけのものではありません」と心の中で反論しました。
つづいて、「あなたはこれを全部支払うだけのお金を持っていないのか」と問われました。「持っていないわけではありませんが、あのお金は家族の家を買うために貯めてきたお金です。今全部使ってしまうわけにはいきません」と押し問答がつづきました。しかし、その主からの促しはあまりにも強く明確であったために、ついに主に従うことにしました。それでもなお、もしかしたらこれは一時的な自分の感情の高ぶりのせいかも知れない、と最後の抵抗を試みました。「主よ、私はこの導きが99%あなたからのものであると信じます。しかしなお残り1%の確信を得るために、どうか3つのしるしをください」と祈ったのです。
するとその日の夜、夢を見ました。私が眠っている間に泥棒が入ってきて、私の預金通帳や印鑑を盗んでいったのです。これに気がついて翌朝一番に銀行に電話をかけて、「昨日泥棒に預金通帳と印鑑を盗まれたから、すぐに預金の引き出しをストップしてください」とお願いしました。ところが銀行員の方が調べてくれて、「申し訳ありませんが、あなたの預金はたった今全額引き出されてしまいました。残高はありません」と返事をしてきました。私はがく然として、「ああ、こんなことになるんだったら、主の導きに素直に従って献金しておけばよかった」と思ったとたんに、夢からさめたのです。
これほど明らかなしるしがあるでしょうか。そして間もなく、みことばが与えられました。それは誰でも知っている、「地上に宝を貯えるな、天に宝を貯えよ。あなたの宝のある所にあなたの心もあるのだ」というマタイ6章19節から21節のみことばです。これで2つ目のしるしが与えられたわけです。「ああ、もうだめだ」と観念して、第3のしるしを待っていましたが、この最後のしるしがなかなか与えられませんでした。何週間か過ぎて、しるしのことなど忘れかけていたときに、関西ナビゲーターの宇野雄司さんからメッセージ・テープが1本送られてきました。
その当時は、メッセージ・テープは退屈で聞いているうちにすぐに眠ってしまうことがよくあったので、そのままゴミ箱にいれてしまうつもりで部屋の片隅に放っておきました。しかしその日は仕事で緊張がつづいて非常に疲れており、なかなか寝つかれませんでした。そこで退屈なメッセージ・テープでも聞けばそのうち眠ることができるだろうと思って、捨てるはずのテープを何気なくつけてみたのです。
そのメッセージでは牧師が献金のすすめについて話しておられました。「みなさんは神さまからすべてをいただいているのに、教会の献金がこんなに少ないのはどうしたわけでしょうか。ある人は10年も月定献金が同じ額です。10年働いていれば会社での地位は上がり、昇給もしているはずなのに、どうして献金はふえないのでしょうか」というようなことを、まことにストレートに語っておられました。私はこれを聞きながら、「ずいぶん厳しいメッセージだなあ」と批判的な思いになっていました。そしてすぐに眠れるどころか、ますます頭がさえて眠れなくなってしまいました。「私はこれまで十分以上に献金してきたから、非難されるいわれはない」などと、心の中で自己弁護の議論を始めたのです。
しかししばらく考えていくうちに、自分では十分以上に各方面に献金してきたと自負してみても、しょせんそれはあり余る中からささげたものにすぎないではないか。生活費のすべてであるレプタ2枚をささげた貧しいやもめとくらべてみたらどうなのか。主はささげる金額ではなく、ささげる心を見ておられる、と思えてきました。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(1サムエル16:7)のみことばが心にひびいてきたのです。
そうすると、神の明確な導きに逆らっている自分が非常に醜く見えてきました。そこでついに主の御前に悔い改めて、主の導きに従う最後の決断をして、これを実行することができたのです。妻も即座に同意してくれましたし、調べもせずに定期預金を解約しに銀行に行った日がちょうど満期日でした。主の導きはこのように驚くほど完全です。この献金によってロシア・東欧に二百数十万冊の聖書やトラクトが送られた、との報告をうけました。
4.驚くべき恵み
この体験を通して、神の驚くべき恵みが与えられました。最大の恵みは、神ご自身との生きた交わりが一段と深められたことです。それまでは、祈りは私の方からの一方的な願いや感謝や賛美がほとんどで、神の側からの語りかけは、まれにしかありませんでした。しかしその後は、神からの語りかけをどんどん受けることができるようになったのです。次第に祈りが神と親しく語り合う会話になってきました。「わたしに呼び求めよ。そうすれば、わたしはあなたに答える」というエレミヤ33章3節のみことばが日常生活の中で現実になってきたのです。イザヤ65章24節には「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているときに、わたしは聞く」と書かれています。これは私にとってまことに驚くべき恵みです。
さらに、「みことばが開けると光を放つ」と詩篇119篇130節にありますように、聖霊の働きにより、みことばの文字の内に隠されている神の栄光を見ることができるようになりました。主は言われました。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ8:12)。「もし信じるなら、神の栄光を見るであろう」(ヨハネ11:40)。
また、「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」(ヨハネ6:63)とありますように、聖霊の働きにより、みことばの文字の内に隠されている神のいのちにふれることができるようになってきました。
そして、「神さまは、ひとりの人に働きかけてもこれほどのことができるお方である。だから神にできないことはなにもない」という確信が一層強められてきました。また、主は私たちのために天国にすばらしい住居を用意しておられることと、必要ならばこの地上においても、私たちのためにふさわしい住居を無償で与えてくださることを確信することができるようになりました。今では「イエスさまは、いつどんなすばらしい家を与えてくださるのだろうか」と家族で話し合いながら、楽しんで恵みの時を待ち望んでいます。このようにしてイエス・キリストは私たちを住宅問題や金銭問題から解放してくださいました。
その後、仕事の面でも収入の面でも祝福されてきていることは、言うまでもありません。またテープの重要性を悟り、テープ伝道と称して、メッセージ・テープを知人の方々に送り届ける働きをするようになりました。
5.高性能大型印刷機の導入
その後この宣教団体のリーダーの方に手紙を出しました。「神さまは私のような小さなひとりの者を動かしてあれほどのことを成し遂げて下さったのですから、もっと大きなビジョンに挑戦してください」と書いて励ましたのです。これがきっかけになったのか、この団体は大きなビジョンに挑戦しました。それは、高性能大型印刷機を購入してそれを入れるために、大きな土地に引っ越して工場を作るというものです。総額14億円のプロジェクトで、その不足資金が7億円だというのです。その不足資金を全部献金でまかなうというのですから、日本のキリスト教界においては、ずいぶん大きな計画です。
私は「この団体のためにはやるだけのことをやったのだからもう関係はない」と思っていました。「もっと他の諸団体を支援しなくては」と考えていたのです。しかし再び主に導かれて、このプロジェクトの発起人の1人に加えられ、献金要請の責任の一端を荷うことになりました。当初、10万円ささげていただく方が7千人いれば7億円の必要が満たされるということで、日本中の教会に呼びかけて大々的にキャンペーンをスタートしました。
この団体の真剣な努力にもかかわらず、予想に反してなかなか献金が集まりません。スタート当初の盛り上がり分を含めても、2年近くもたって2億円しか集まりません。私共はそれまでも祈ってきましたが、もっと真剣に祈るようになりました。「神さま、このくらいのお金がどうしてすぐに集まらないのでしょうか。1人でもささげることができる金額です。どうかどなたかを動かして、速やかに残額5億円に1億円のボーナスをつけて与えてください」と祈りました。
そうしたら1週間後に、あるお医者さんがボーナス分の1億円を献金してくださったのです。しかもあとで知ったことですが、この方は他の団体にも1億円献金なさったのです。これを聞いて、もう大丈夫だと思いました。残りの5億円が献金されるのは時間の問題だと思えるようになりました。2人の方が献金してくだされば良いのです。1人が2億円、もう1人が3億円ささげてくだされば良いのです。そのように毎週の祈とう会でも仲間たちと祈りました。
私はこのようなある意味では大胆な祈りを確信を持って祈ることができるようになりました。「わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞いてくださる」(1ヨハネ5:14〜15)とありますが、私がかつて主の導きに従ってこれに似たことを実行したことがその確信のベースになっています。これは主の驚くべき恵みです。
この高性能大型印刷機によると中国語の旧新約聖書を8時間に1万2千冊印刷できます。1日24時間フル稼働で3万6千冊の中国語聖書が印刷できるのです。このようにして世界各国語の聖書やトラクトや信仰書が、日本で印刷されてどんどん贈呈されていくことは、本当にすばらしいことです。そして、主の力によって献金が容易に集まるならば、もっと大きな印刷機を導入して、さらに大規模な日本と世界のリバイバルに備えていくことができるのです。
6.主はあなたの道をまっすぐにされる
生活の中で、自分の悟りにたよらず、心を尽くして主に拠り頼んで、絶えず絶えず主のご遍在とご臨在とご内住を意識するようにしていくならば、主は私たちの道をまっすぐにしてくださいます。これは要するに、第2コリント5章7節の「私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」という生活をすることです。
イスラエルの民は、主の奇跡の恵みによって紅海を渡ってエジプトを脱出した後、乳と蜜の流れる神の恵みの地カナンを目前にしていました。わずか2週間で行ける距離です。ヨシュアとカレブは主に拠り頼んでまっすぐな道を進み、一挙にカナンの地を勝ち取ろうと言いました。しかし他の10人の斥候は自分の見たところによって、すなわち自分の悟りにたよって、戦う前から敗北を宣言してしまったのです(民数記13:30〜31)。イスラエルの民全体が自分の悟りにたよって敗北宣言に同意したために、40年の間荒野を放浪しなければなりませんでした。
詩篇85篇10節に「あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです」というみことばがあります。「祈りとみことばによって聖霊の臨在と内住の中に生きる1時間は、自分の悟りによってがんばって働く千時間にもまさるのです」ということではないでしょうか。それは、「御霊によって歩みなさい」「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて進もうではありませんか」のガラテヤ5章16節、25節の生き方です。そうすれば、私たちは主のまっすぐな道を歩ませていただけるのです。
それでは、「御霊によって歩む」「御霊によって生きる」「御霊によって導かれて進む」とはどういうことなのでしょうか。それは要するに、「私たちの心の内と外におられるイエス・キリストによって歩み、生き、導かれて進む」ということではないでしょうか。私たちの心の内におられるイエス・キリスト、また私たちをご自身の内に入れておられるイエス・キリストがどういうお方であるのかを、単に頭で理解するだけではなく、生活のすべての領域で体験していく、ということではないでしょうか。
聖書によれば、キリストこそは、唯一・絶対・永遠・無限・全知・全能なる神のみことば、神の独り子なる御子、天地万物の創造者・支配者、王の王、主の主、万軍の主、栄光の主、勝利の主、平安の君、とこしえの父。また、キリストは、私たちの罪の身代わりとして命を惜しまず与えてくださった救い主、あがない主、私たちに永遠の命を与えるために死の力を克服してよみがえられた復活の主、やがて私たちを迎えにきてくださる再臨の主。さらに、キリストは、私たちのためにどこにでもいてくださる遍在の主、私たちとともにいつもいてくださる臨在の主、私たちの心の内に住んでいてくださる内住の主。
そして、キリストは、完全なる聖にして、義にして、愛なる方、最強の力なる方、道であり、真理であり、永遠の命であられる方、あらゆる病のいやし主、すべての問題における助け主、あらゆる束縛から自由にしてくださる解放の主、無限の恵みの与え主、最後の裁き主、大祭司なる方、最も良き教師・弁護人、最も慈しみ深い友なる方、そして私たちの花婿・夫となられる方であり・・・私たちにとって「すべてのすべて」であられる方です。これはイエス・キリストについて聖書が語っていることの一部です。聖書全体がイエス・キリストを証しています(ヨハネ5:39)。私たちの心の内におられ、同時に私たちをご自身の内に入れておられるイエス・キリストは、このようなすばらしお方なのです。
「あなたがたのうちにおられる方は、この世のうちにいるあの者よりも力がある」と第1ヨハネ4章4節で言われています。私たちの内におられるイエス・キリストは、この世を支配している闇の力・サタンよりも力があるのです。ですから私たちはサタンの誘惑や攻撃を打ち破っていけるのです。イエス・キリストは、「わたしはあなたがたに蛇とサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だからあなたがたに害を及ぼすものはなにもないであろう」(ルカ10:19)と宣言しておられます。主は、こうして私たちの人生の道をまっすぐにしてくださり、勝利から勝利へとそして栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えていってくださいます。それは霊なる主の働きによるのです(2コリント3:18)。
7.心を尽くして主に拠り頼め
ここで箴言3章5節の初めの聖句にもどりますが、私たちは「心を尽くして」主に拠り頼むように求められています。言いかえれば、「100%」主に信頼せよということです。「99%」では不十分であるということです。最近私はこの「100%」と「99%」のちがいに気づかされつつあります。主は完全なるお方です。ですから当然私たちも完全な者であるようにと命じられています(創世記17:1、マタイ5:48)。しかし、私たちが自分でがんばって完全になることは絶対にできません。完全なる主に「100%」拠り頼むことによってはじめて、私たちは主の目に完全な者として見られるのです。
「99%」主に拠り頼んでも、「心を尽くして」主に拠り頼んだことにはなりません。「最後の1%」は主以外のものに拠り頼んでいるのですから。この「最後の1%」が天と地の差をもたらすのです。「99%」は99にすぎません。しかし「最後の1%」を主にゆだねたならば、それは∞(無限大)になるのです。なぜなら主は無限なるお方であるからです。「最後の1%」を主にゆだねることによって、私たちは無限なるお方と完全に一体にされていくのです。ですから、この「最後の1%」こそが、私たちを地上の者(縛られた者)から天上の者(解放された者)へと移し変える質的変化をもたらすものです。
「99%」は自分の信仰や能力や努力や幸運で何とか達成できるかも知れません。しかし「最後の1%」はそうは行きません。これは死に至るまで主に従うということです(黙示録2:10、12:11)。自我に死に切って、自分自身を完全に主に明け渡すということです。これは私たちの内の「古い人」がキリストと共に「十字架」につけられていることを本当に悟り、現実にそのように生きることではないでしょうか(ガラテヤ6:14)。すなわち、私たちの内の「古い人」がキリストと共に死ぬことによってはじめて、私たちの内の「新しい人」がキリストと共に生きることができるということを体験するのです(ローマ6:6〜7、テモテ2:11、1コリント5:17)。
イエス・キリストは地上のご生涯で、良い教えをし、悪霊を追い出し、病をいやし、大勢の群衆に食物を与え、嵐を静め、その他数多くの業をなさいました。そのまま最良の王・君主として地を統治することもおできになりました。しかしそれでは99%なのです。それでは私たち全ての者の罪が許されることはなかったのです。それでは私たち全ての者が主の永遠の命をいただくことはできなかったのです。
イエス・キリストが父なる神の導きに「100%」従って、十字架について血を流し、ご自分の命をささげてくださったからこそ、私たちの罪が許されたのです。そして主が死からよみがえって復活してくださったからこそ、私たちに永遠の命が与えられたのです。
一粒の麦が地に落ちて死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネ12:24)
とイエス・キリストはおっしゃいました。それが「活けるキリスト一麦教会」の目標であると思います。主のまっすぐな道とは、「十字架の道」です。しかし「十字架の道」こそ「復活の道」なのです。そしてそれは「昇天の道」へとつづいているのです。
8.神の計画
最後に、主が私たちの道をまっすぐにされるそのご計画(その目的地)について考えてみたいと思います。神は愛そのものであられます(ヨハネ3:16、1ヨハネ4:8〜9)。私たちをその瞳のように大切に守り(申命記32:10、詩篇17:8、ゼカリヤ2:8)、高価で尊いと思っておられます(イザヤ43:3)。神は私たちをねたむほどに愛しておられます(申命記6:16)。
愛とはお互いを与え合って完全に一体になろうとする最も激しい情熱であり、最も強い力です。神はその愛のご性質のゆえに、私たちにご自分のもっておられるすべてを与えたいと願っておられます(ローマ8:32、エペソ3:19)。それゆえに私たちのなすべき最も大切なこととして、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マタイ22:37、申命記6:4)と命じておられるのです。
愛の神は、私たちのために計画を持っておられます。それは災いを与える計画ではなく、平安と将来と希望を与える計画です(エレミヤ29:11)。親が子供に最も幸いな生活を与えたいと願い、子供の将来をいつも案じているように、神は私たちに最も幸いな生活を与えたいと願い、私たちの明日を案じておられます(マタイ6:25〜34、2コリント9:8)。神は私たちに健康といやしと豊かな繁栄と安全を与えると言っておられます(エレミヤ33:6)。イエス・キリストはすでに、私たちに永遠の命、豊かな命、あふれて川のように流れ出る命を与えてくださっているのです(ヨハネ7:38、10:10、28、11:25)。私たちが心からキリストを信じるならば、この神の無限の命が満ちあふれてくることを体験するようになります。
ですから神は、私たちがこの世のどんなことにも心配したり、思い煩ったりして欲しくないのです(ローマ8:28、ピリピ4:5、1ペテロ5:7)。ただ心を尽くして「100%」神を信頼して、心を尽くして「100%」神を愛して欲しいのです。神は私たちを驚くべき恵みの世界に導き入れたいのです(申命記28:1〜14、エレミヤ17:7〜8)。この驚くべき恵みの世界とは、かつての「カナンの地」に象徴される栄光に輝く「神の国」です(マタイ6:33、エペソ1:18)。確かに、「私たちすべてのために御自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちのために恵んでくださらないことがありましょうか」(ローマ8:32)。
やがてイエス・キリストがこの地上に再び来られて、全世界に完全なる「神の国」を実現してくださることになっています(黙示録22:10〜20)。ですから、世の中がどのように移り変わろうとも、私たちには、キリストが再び来られるという「絶対的ハッピー・エンド」の平安と将来と希望が与えられているのです。
私たちの心の中に、家庭に、教会(聖徒の集まり)に、職場に、社会に、日本に、アジアに、そして全世界に「神の国」が実現するように祈り求め、キリストの再臨を待ち望みつつ、心を尽くして「100%」主に拠り頼んでいきましょう。
万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前に平地となる。(ゼカリヤ4:6〜7)
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