神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。(2テモテ1:7)
1.生い立ち
私は1943年(昭和18年)に東京の浅草で生まれました。父は祖父とともに米屋を経営していましたが、当時は太平洋戦争の真っ最中で、徴兵されて帝国陸軍の軍曹として中国南部に進軍していたようです。
私の名前の「満男」は、「満州で活躍する男になるように」と、日本が植民地・満州にかけていた期待を、そのまま父が長男の名前に現したものである、と後で聞かされました。
ところが、国家全体の極度の緊張と食糧難に災いされてか、私は生まれてから非常に病弱で、食事をとることができず、ずっと医者のお世話になっていました。新潟の疎開先では、医者にも見放されてしまい、「この子はもう助かりませんから、あきらめてください」と言われたそうです。
しかし、母が決してあきらめることなく、やせて骨と皮ばかりになった私を背負って大雪の積雪の中を毎日何里も歩いて医者に通いつづけてくれました。途中に大きな川がありますが、橋を渡るには遠くて時間がかかりすぎるので、近道をするため半身水につかって横断してくれました。雪国の川の水がどれほど冷たいか、想像もできません。母の限りない愛と医者のブドウ糖注射のおかげで、なんとか生きのびることができたのです。
ですから、その後の人生において苦しいことにぶつかったときはいつも、「私はあの時死んでいたと思えば、今生きているだけでありがたいことではないか」と考えて、気を楽にすることができました。
米軍のB29戦闘爆撃機の大軍による焼夷弾爆撃空襲により、浅草はほぼ全滅し、父と祖父の家・財産も全焼しました。
祖父は関東大震災でも全財産を焼失したこともあって、「財産ほど頼りにならないものはないから、お前は健康のことだけ気をつけなさい。体が健康ならなんとしても生きていけるから」と、いつも私に言ってくれました。しかし、幼児期の大病のせいか、その後もずっと体調はすぐれず、いろいろな病気にかかり、病院によく行きました。
父方の血すじは、体も頑丈で、気性が激しく、酒も強く、商売も上手ですが、母方の血すじは、体はひ弱で、性質がおとなしく、酒ものめず、商売も下手で、私は母方の血すじを引いているようです。
その意味で、父に対してはいつもコンプレックスを持っていました。父としては、気が弱く、酒ものめないような息子がはなはだ情けなく思われ、いろいろ厳しく訓練してくれましたが、祖父の背後に隠れて、父のプレッシャーをできるだけ避けてきました。長男として父の家業を継ぐことが期待されていましたが、それもいやで逃げてきました。
父の希望は私が商業高校を出てすぐに米屋を一緒にやることでした。そこで私は普通高校を出て早稲田大学の商学部に入学しました。ところが、父の親友の米屋の息子さんが、その年に同じ大学の同じ学部を卒業して親の家業を継いだのです。これでは私も同じコースをたどってしまうのではないかと思って、9月に退学届を出して、翌年また受験して東京大学の文科一類(法学部コース)に入ってしまいました。
その時点で、父もついにあきらめてくれて、「お前は自分の道を行きなさい。しかし困ったらいつでも帰って来なさい」と言ってくれました。数年後、下の妹が柔道・剣道の有段者と結婚して、2人で米屋を継いでくれましたので、ホッとしました。
そのようなわけで、私は生まれてこの方、病弱で臆病でした。東大に入って父のプレッシャーからも解放されて、一時は天下を取ったような思いになり、いろいろなことに手を出して、学生運動に首を突っ込んだり、十を越えるクラブ活動に参加したりしました。しかし、どれもこれも、すぐに体力と気力の限界にぶつかって、無力感に悩まされるのです。
2.弁護士になって
明確な目標もなく法学部へ入ったため、法律の勉強は砂をかむような味気のないものでした。しかし、卒業しなければならないので、司法試験でも受ければ少しはやる気が出るだろうと思って、法律の勉強会に入りました。そこで皆で、ワーワーと議論しているうちに、運良く受かってしまったのです。
それでも卒業後の進路が決まらず、だいぶ迷いました。と言うのは、公務員試験にも受かって建設省に内定し、総合商社の住友商事への就職も内定していたからです。結局とりあえず弁護士をやってみて、いやなら転職しようと考えました。2年間の司法研修中に、たまたまある弁護士に誘われて事務所を見に行ったら、その場で採用ということになり、勤務することになりました。入った事務所が国際的な法律問題を専門に取り扱っていて、何が何だかわからないうちに、いろいろな国際事件を担当して、よく海外に出張したりしました。
しかし、そこでもやがて、私の虚弱な体力と気力の限界にぶつかって、無力感に悩まされるのです。
3.キリストに出会ってから
そのような無力感に悩まされていた中で、人生を根本的にやり直そうと思い、聖書を読み、学ぶようになりました。そしてやがてイエス・キリストを信じることができました。これが私の人生の最大の転換となり、無力から解放されたのです。
(1)セルフ・イメージの逆転
それまでの私は、自分が好きではありませんでした。時には、嫌悪してきました。人と比べて、自分の心も能力も体力も外面も劣るという劣等感がありました。自分の高い理想と比べるともっと劣ると信じ込んでいました。そのために、人の自分に対する評価を非常に気にしていました。人から批判されたり、非難されたりするのを最も恐れていました。
ところが、キリストを信じることによって、この否定的なセルフ・イメージが逆転してしまったのです。それは、「神は人をご自身のイメージに創られた」(創世記1:27)と聖書に書かれていることを信じるようになったからです。
しかも、神の目から見て、人は「高価で尊い」と思われている(イザヤ43:4)ことがわかったからです。神は限りない愛をもって、私たちを愛しておられる(エレミヤ31:3)ことを知ったからです。もしそうでなければ、「神がイエス・キリストという人になられて、私たちとご自身との関係を回復させるために十字架について、私たちの罪の犠牲となって下さった」というストーリーは、とうてい信じることができません。
親から見れば、自分の子どもはまことに高価で尊いものです。それは、親のイメージが子どもに現れているからです。母が私を高価で尊いと思ったからこそ、医者に「あきらめなさい」と言われたにもかかわらず、大雪の積雪の中を毎日何里も歩いて医院に通ってくれたのだと思います。
そのような視点から新しい自分を見直してみると、だんだん自分が好ましい者と思えるようになってきました。そもそも、神が私をこのような個性に創ってくださったのだから、文句を言う筋合いではないと思うのです。
実はキリストを信じることによって私の内側(霊の次元)に「新しい私」が生まれた(2コリント5:17)のです。この「新しい私」は神のイメージによって新しく創られた者であり、それゆえに完全・無欠です。この「新しい私」は神から生まれた者でありますから、罪を犯す(神から離れる)ことができないので、罪を犯さない(神から離れない)(1ヨハネ3:9〜10)のです。罪を犯す(神から離れる)のは私の内にある「古い私」(エペソ4:22)です。この「新しい私」は永遠の命を与えられた者であり、神から永遠に離れることがない(ヨハネ3:16)のです。
決して他の人と比較してどうのこうのと評価すべきことではなく、神の絶対的な基準から見て、本当にすばらしく創られているということです。ですから、きわめて自然に自分(新しい自分)が好きになれます。これはいわゆる「自己愛」ではありません。「自己愛」は新しく生まれていない不完全な欠点だらけの自分(古い自分)を最高のものとして愛するということです。それは本質的には「他の人はどうでもよい、自分だけが大切だ」という思いです。
このように自然に新しく生まれた自分が好きになってくると、不思議なことに他の人々も自然に好きになれます。なぜなら、他の人々もまた、神によってそれぞれの個性に創り上げられた傑作中の傑作である「新しい人」をその内側に持っているからです。まだキリストを信じていなくても、その人の内に「新しい人」が生まれる可能性を持っているからです。
さらには、人間だけでなく、この大自然のあらゆるものが、神の傑作であってすばらしいもの(創世記1:31)だと思えるようになりました。神の愛を受けることによって、神を愛し、自分を愛し、人を愛し、自然を愛することができるようになったのです。
(2)がんばりからの解放
以前の私は、結局は自分しか頼れないものだと思って、がんばって生きてきました。がんばらなくてもよいときでも、世間の常識でなんとなく人との競争関係に入ってしまい、がんばるような習慣にとらわれていました。
ところが、キリストを信じてからは、「がんばって生きる必要はなかったのだ」ということがわかりました。人は天の父である創造主たる神によって創られた、「神の子ども」(1ヨハネ3:1)です。すべてを所有しておられる天の父に愛されて養われています。ですからがんばって子ども同志で競争して生きる必要などないのです。
だからイエスさまは、ただひとつ戒めとして「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたもたがいに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)と言われました。「明日のことを心配するな。天の父は日々あなたがたを養ってくださる」(マタイ6:25〜34)と言われたのです。
人は自分で生きているのではなく、神の愛と恵みによって生かされています。おたがいに愛し合うために、いろいろな役割を分担して助け合いながら、楽しく生活できるのです。それは自然な生活であり、他の人と競争するために汗水たらしてあくせくと無理矢理がんばりつづけるものではありません。
(3)所有欲からの解放
神を知らず、神を頼りとしなければ、神以外の何ものかを頼らざるを得ません。それは、自分であり、家族や人間関係であり、学歴であり、資格であり、地位・身分であり、金や財産です。
ところが、天地万物の創造者、所有者、支配者である神を信頼するようになると、神以外のものは頼りにならないことがわかり、あまり欲しくもなくなる(マタイ6:19〜21)のです。
子どものころからの祖父の教訓にしたがって、私はいまだに、自分の持家もなく、別荘もなく、車もなく、さしたる財産もありませんが、あまり欲しいとも思いません。本当に必要なものはすべて、天の父が与えてくださいましたし、これからも与えてくださると信じています。
自分が多くを所有するよりも、貧しい人々に与えたり、教会や福音宣教の働きのために献金したほうが、はるかに豊かな恵みを受けることを体験しています。ある時は、神の導きにしたがって、200万冊以上の聖書等を旧ソ連邦・東ヨーロッパに贈呈することができました。これは本当に大きな喜びです。
(4)心の平安と健康の増進
以前の私は、気が弱く、病弱でした。しかし、今ではキリストを信頼することにより、いつも心に大きな平安があります(ヨハネ14:27)。状況の変化や人の評価があまり気になりません。
もう20年近く、新聞の定期購読をやめ、テレビを見ていませんが、仕事や生活のうえで困ったことはありません。社会の雑多な情報から解放されているだけに、逆に社会に向けて、キリストのあかしをしたり神の真実の情報を提言したりできるようになりました。テレビに出たり、大勢の人の前で話したり、本を出版したり、雑誌に寄稿することにも慣れてきました。かつての消極的な私にはとても信じられないことです。
心の平安が、健康にも良い影響を与えるのは当然です。定期健康診断も受けず、健康法など全く無頓着です。3年に1回歯医者に歯石をとってもらいに行く以外には、医者のお世話になったことがありません。病気になっても、いやし主である神がいやしてくださると信じて、安心していられる(詩篇103:3、エレミヤ33:6)からです。
一時は胃腸が弱かったため、コーヒー・紅茶・日本茶をいっさいやめて、白湯(さゆ)ばかり飲んでいました。寿司もさび抜きで、カレーやキムチなどの刺激の強い料理はいっさいとりませんでした。たまにどうしてもコーヒーを飲まなければならなかったときは、その晩はカフェインが効きすぎて一睡もできません。カレーライスを食べると2、3日胃がむかついて調子が悪くなるのです。しかし今では、1日にコーヒー10杯飲んでも、ぐっすり眠れます。韓国料理にも慣れてきました。
アメリカの統計によると、毎週日曜日教会の礼拝に出席している人たちは、そうでない人たちよりも10年長生きしているそうです。
(5)力の源の発見
かつては、いつも気力・体力の限界にぶつかってきました。それは、ちっぽけな自分の気力と自分の体力に頼ってきたからです。今では、力の源があります。それは神です。キリストを信じる者には、神の絶大な力が与えられます(エペソ1:19)。
以前、ある非常に難しい6年越しの裁判の勝訴判決をもらいました。相手側の弁護団は絶対に勝てると信じ切っていたようです。一緒にこの事件に取り組んできた仲間の弁護士たちは、当初からずっと悲観的でした。裁判に勝ち目はないから、なんとか途中で和解しようと考えていました。
しかし、どういうわけか私には、この裁判は勝てるという確信がありました。祈っていると、神からそのような確信が与えられるのです。そして、事ある毎に勝訴の可能性があることを語ってきました。そうしたら、完全勝訴になったのです。この長期裁判には4回の節目がありましたが、4回ともすべて勝訴しました。
このような確信は、気の弱い私から出たものはなく、神を信頼するときに神からふんだんに与えられる力によるものです。自分でがんばってしぼり出すような肉の力ではなく、自然に湧き起こってくる神の力です。
かつては10時間寝ないと十分な気力が回復しませんでしたが、今はあまりにも多忙なため平均4、5時間の睡眠しかとれません。それでもなんとかもっているから不思議です。
4.おわりに
今私の人生を振り返って見ると、あまりにも豊かな神の愛と恵みに圧倒される思いがします。私がキリストに出会う前から、神は愛と恵みを与えつづけて来られました。
ただそれらを神からのものと認識することができなかっただけです。それは本当に大きな罪です。本来は、この世に生まれ、生かされ、数え切れないほど受けている神の祝福に感謝し、神を讃えるほかないにもかかわらず、私の罪のためにいつも不平、不満、劣等意識を持ちつづけてきたのです。
国際的な仕事をする弁護士になったのも、今から考えると神の恵みの導き以外の何ものでもありません。数々の試練を体験し、失敗もしましたが、それもすべて益にされてきました。最愛の妻が与えられ、2人の子どもにも恵まれ、家族全員がキリストを信じる幸いにあずかっています。
「満州で活躍する男」にはなれませんでしたが、「神の恵みに満たされた男」となることができました。キリストを信じる者は、だれでも「神の恵みに満たされた人」になることができます(2コリント9:8)。
神の恵みによって、イエス・キリストと出会ってから、私の人生は180度転換しました。霊の次元において、キリストに結ばれて新しく生まれた(ヨハネ3:3)からです。私の心の奥底に、力と愛と慎みとの霊が与えられた(2テモテ1:7)からです。こうして私は、「新しい生きがい」を発見し、「無力」から解放されたのです。
イエスは答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(2コリント5:17)
佐々木満男(ささき・みつお):弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。