福音書の中にはユダヤ人の宗教界を指導していた律法学者たちが、主イエスを罠にかけようとしたり、力量を試そうとして議論を仕掛けてきたりしたことが記されています。
「良きサマリヤ人」の話もその一つで、律法の専門家がイエスを試そうとして、「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねています。主イエスは、これには答えず、逆に、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問うておられます。
彼は、律法の専門家らしく即座に、心と精神、力と思いを尽くして神を愛すべきこと、隣人を自分のように愛すべきこと、という律法の中心を見事に提示することができました。
しかし、聖書を読むとか、これを知り尽くしているとかいうことと、これをどう読むかということとは大きな違いがあります。主イエスは、この律法学者の見落としているところを、見抜いておられたようです。
イエスが、「正しい答えだ。それを実行しなさい」と言われた時、彼は「では、私の隣人とは誰ですか」と質問しています。学者らしく、彼には隣人の定義が欲しかったのです。つまり、彼には、隣人とは時間と空間において、どこからどこまでを指すのか、定義と言うか、線引きが必要だと言うのです。言い換えれば、隣人になり得る人と、隣人にはなり得ない人との間に、明確な境界線を引いておきたいということです。「隣人」とあるからには、隣人に相当する人と、しない人があり、隣人でないなら愛する必要はなく、その人を無視したとしても、自分の行為を正当化することができるのです。聖書には「彼は自分を正当化しようとして」とあって、この人の聖書の学びは、自分を正当化するための手段でしかなかったことが分かります。
しかし、これはこの律法学者だけの問題ではなく、今日の教会の牧師や信徒の陥り易い問題でもあるように思われます。ある牧師の話の中に「私の教会には精神的な病の人が多いのですわ・・・こういう人たちは教会の戦力にはなりませんがね」とありました。また、ある田舎で、大きな教会を指導なさっている先生の場合、司会者が「村の小さき教会、今もそこにありや」という讃美歌を選んだところ、「私はこんな歌、嫌いです」と申されました。「大きいことは良いことだ」という風潮の中に押し流され、教会も真の隣人愛というよりも教勢の数を増やし、財力を強めたい、そして大きな集会をしたいということの中に、世俗的な誘惑が知らず知らずのうちに混在しているとしたら、キリスト教会が大きな権力を手中に収めながら堕落して行き、イエス様が言われる、真の隣人を忘れた教会を再現させてしまうかも知れません。残念ながら、教会の歴史はその事実を記録しています。
主イエスは、「良きサマリヤ人」のたとえを通して、律法主義と外面だけの羽振りの良さに捕らえられて、信仰者の生命とも言うべき真実の愛を失っている者たちの、冷ややかで哀れな姿を映し出して下さいました。
エリコに向かう旅人は強盗に襲われ、身ぐるみはぎ取られ、半死半生の状態で道端に投げ捨てられているのです。しかし、司祭やレビ人は、見て見ない振りをして通り過ぎてしまいます。見ないことにしたい。知らなかったことにしたい。この時には、聖書の教えも知らなかったことにしたいのです。恐るべきご都合主義ではありませんか。
このような、傷付いた人を助けても、彼らの宗教活動の戦力にはならないと判断したのかも知れません。悲しいことに、彼らは主イエスが指摘しておられる通り、「聖書をどう読むか」「隣人とは誰か」を知らなかったのです。「聖書読みの聖書知らず」のそしりを免れません。
しかし、サマリヤ人には、隣人の律法的定義はありませんでした。彼には全ての人が区別なく隣人でした。愛のないところには隣人なく、愛あるところに隣人ありということでした。サマリヤ人の愛は身分や人種を超えたものであり、惜しみなく注がれるものでした。
マザー・テレサの言葉をお借りしてこの話を締めくくらせていただきます。「私たちが信じることのできるのは、人を愛するあまりに命を捨てたあの方だけです。あのキリストは人々の苦しみを担って人々の贖いのために人間の体験し得る最も悲惨な状況で自分の生命を、人々のために捧げました。死に至るまで苦しみを味わい抜いて、苦しむ人間と共にいる神を示されました。苦しみのどん底にある時、神は身近にいることを示されたのです。キリストは十字架の上で、死に、よみがえって今、私たちの中で生き始めています。私たちの中であのキリストが生きておられます」。
「神は愛です。愛にとどまる人は、神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまって下さいます。」「私たちが、愛するのは、神がまず私たちを愛して下さったからです。」(1ヨハネ4:16、19)
私たちにとって、「私の隣人とは誰」なのかを問い続け、探し出し、介抱し、互いに赦し合い、愛し合うところにのみ隣人は存在します。
藤後朝夫(とうご・あさお):日本同盟基督教団無任所教師。著書に「短歌で綴る聖地の旅」(オリーブ社、1988年)、「落ち穂拾いの女(ルツ講解説教)」(オリーブ社、1990年)、「歌集 美野里」(秦東印刷、1996年)、「隣人」(秦東印刷、2001年)、「豊かな人生の旅路」(秦東印刷、2005年)などがある。