私は山に向かって目を上げる。
私の助けはどこから来るのだろうか。
私の助けは天地を造られた主から来る。
(詩篇121:1〜2)
1.はじめに
ひところ世界最大の経済大国ともてはやされた日本は、今その経済が大きくゆれています。経済ばかりではありません。世界で最も安定していると言われた日本の政治もゆれています。また世界で最も信頼できると思われてきた日本の行政もゆれています。司法もゆれています。マスコミもゆれています。学校教育もゆれています。家庭もゆれています。宗教さえもゆれています。そして最もゆれているのは日本人一人ひとりの個人の価値観ではないでしょうか。それらは、単にゆれているだけでなく、根底から崩壊しつつあるような気がします。
将来が見えない。今なにをやったらいいのかわからない。なにもかも悪くなって行きそうだ。今どんなことが起こっても、おかしくない。このような日本社会全体の絶望的風潮に流されて、私たちはどんどん平安を失っているのではないでしょうか。このような不安と混迷の中で、私たちが「ゆるがない平安」を持って楽しく力強く建設的に生きていくための秘訣を、世界の永遠のベストセラー「聖書」から、ご一緒に学びたいと思います。
2.目に見えるものはすべて移り変わる
私たちは平安をどこに求めているのでしょうか。どうしたら安心して生きていけると思っているのでしょうか。
銀行にたくさん預金があれば安心だ。優良会社の株を持っていれば大丈夫だ。土地や家を所有していれば、いろいろな保険に入っていれば、健康ならば、若ければ、一流大学を出ていれば、一流会社に勤めていれば、しっかりした人間関係、特によい家族があれば等々、安心の土台(ベース)になるものがたくさんあればあるほど、平安を持つことができると考えているのではないでしょうか。
しかし、それらは本当に安心の土台なのでしょうか。このところ、銀行、証券会社、生命保険会社が次々に破たんしています。これから実施されるビックバンによって、自力で生き残れる日本の銀行は3行、証券会社は1社しかないなどと予想されています。
上がることはあっても下がることはないと信じられてきた不動産価格は銀行等の不良担保物件放出でまだまだ下落しそうです。不動産価格だけでなく、絶対不動と思われている日本の大地そのものが、阪神大震災がありましたように、大きくゆれています。そして、各方面から、近く関東・東京にも大地震が起こると予測されています。
日本社会経済の最大の強さであった終身雇用制度はどんどん崩壊しています。離婚や少年少女の犯罪の激増からわかりますように、夫婦親子の関係もどんどん壊れていっています。学校教育者も完全に自信を失いつつあります。医療制度の発展とうらはらに、病人や精神異常者は増える一方です。そしてなによりも、多くのマスコミ報道・出版の俗悪化・愚劣化によって、私たちの考え方もどんどん汚され、俗悪化・愚劣化しつつあります。
このように社会全体が混乱しつつある時には、人々はますますゴルフや温泉に行って気晴らしをし、酒や精神安定剤を飲んで平安を得ようとします。セックスに耽溺して世から逃れようとします。また、ヨガなどの精神療法に頼ったりします。そして多くの人々が、わらをもつかむ思いで新興宗教に走ります。しかし、そのようなものでゆるがない平安を持ち続けることはできないことを誰でも知っています。それらはみな、まやかしか一時的な便法にすぎないからです。
平安や安心は自然に得られるものではありません。常にその土台となるものを必要としているのです。土台がしっかりしていれば平安で安心していられるのです。しかし、土台がゆれ動くものであるならば、その上に乗っている平安や安心は、一緒にゆれ動いてしまいます。
私たちが平安を失っている理由は一体どこにあるのでしょうか。それはまことに単純明快です。その理由は、私たちが、ゆれ動くものを土台にして平安を得ようとしているからです。
3.永遠にゆるがないものとは何か
私たちが「ゆるがない平安」を得るためには、私たちの信頼が「永遠にゆるがない土台」の上に築かれていなくてはなりません。それでは「永遠にゆるがない土台」とは何でしょうか。「永遠にゆるがないもの」がそもそも存在するのでしょうか。
その答えは聖書に明確に書かれています。聖書には、永遠に無限なる唯一・絶対・全知・全能の天地万物の創造者なる神が存在する、と書かれています。聖書全体がそのような偉大なる創造主の存在を大前提として書かれています。
初めにお読みした旧約聖書の詩篇第121篇の第1節と第2節をもう一度お読みします。
私は山に向かって目を上げる。
私の助けはどこから来るのだろうか。
私の助けは天地を造られた主から来る。
まず「私は山に向かって目を上げる」とありますが、山を見れば同時に天を見ます。私たちは雄大な山と宏大な天を見るとなんとなく心に平安を持つことができます。なぜなら私たちは目で見たものに影響されるからです。山は雄大です。山はゆらぎません。天は宏大です。天もゆらぎません。しかし山は山にすぎません。天は天にすぎません。それらは気分的な平安を与えてくれますが、私たちの現実の助けにはならないのです。
そこで次に、それでは「私の助けはどこから来るのだろうか」という思いが起きてきます。山や天のような大きくゆるがない助けがあったらいいなあ、と思うわけです。
そうすると最後に、そうだ「私の助けは天地を造られた主から来る」のだ、ということに気がつきます。もし、全宇宙・万物を造られた方がおられるならば、それ以上に偉大な存在はありません。
よく考えてみると、天も山も絶対に変わらないものではありません。天気は常に移り変わります。山も地殻変動や噴火によって一瞬のうちに変わってしまいます。しかし、天地を造られた方は天よりも山よりも偉大なるお方です。そのお方、すなわち天地万物の創造者は永遠に変わることがない、と聖書に書かれています。天地万物の創造者である神こそが、「永遠にゆるがないもの」であるわけです。
4.ゆるがない平安
もし私たちが、「永遠にゆるがないもの」すなわち天地の創造者なる神から現実に助けを得ることができるならば、私たちは「どんなことがあっても絶対に大丈夫だ」という確信を持つことができます。「ゆるがない平安」を持つことができます。
詩篇第46篇1節から3節には次のように書かれています。
神はわれらの避け所また力である。
悩める時のいと近き助けである。
このゆえに、たとえ地は変り、
山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、
そのさわぎによって山は震え動くとも、
われらは恐れない。
また、イザヤ書第54章10節には、神の私たちへの約束として次のように書かれています。
山は移り、丘は動いても
わがいつくしみはあなたから移ることなく、
平安を与えるわが契約は動くことがない。
私たちが、天地の創造主の存在を信じ、その神が私たちを現実に助けてくれることを体験できるならば、このような絶対的平安を持つことができるのです。
5.天地の創造主を信じるには
それでは、私たちはどのようにしたら天地万物の創造者なる神を信じることができるのでしょうか。聖書を読み、これを理解して信じることによってです。
旧約聖書の創世記第1章第1節に、
はじめに神は天と地とを創造された。
と書かれています。今の同志社大学を創設した新島譲氏はこの聖句を読んだだけで天地万物の創造者なる神を信じました。しかし、新島氏のように、聖書のみことばを読んだだけで天地の創造者の存在を信じることができる人は少ないのではないでしょうか。特に単なる仮説にすぎない進化論が、あたかも絶対的な科学の真理であるかのように教育されている日本の国にあっては、創世記に書かれている神による天地万物の創造論を信じることは難しいと思います。
けれども、物理学でも、化学でも、生物学でも、音楽でも、美術でも、法律学でも、政治でも、経済でも、真理を深く深く追求していけば、必ず天地創造の神の存在に突き当たります。そのような偉大な神の存在を前提にしなければ、もはやそれ以上説明ができなくなってしまうのです。
また、私たちが素直な気持ちで天地万物を観察していくならば、これらの偉大なものはすべて、決して偶然にできあがっているものではなく、完全無欠なる全知全能の創造者によって造られていることが、直観的にわかってくるのではないでしょうか。(続く)
佐々木満男(ささき・みつお):弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。