古い話でありますが、皆さんは太田道灌という人をご存知でしょうか。私は小学四年から五年の頃、この人にまつわる話を国語の教科書によって知り、今もその時のことが鮮やかによみがえってきます。
太田道灌という人は今から五百年ほど前の人、室町中期の武将でした。上杉定正の執事として活躍、江戸城を築くのに尽力した人として知られています。彼が狩りに出かけた時のことです。生憎、雨に降られて一軒の農家に駆け込み、雨具(蓑)を貸して欲しいと頼みました。家から出てきた一人の少女がうやうやしく頭を下げ、一枝の山吹の花を両手で差し出し、一首の歌を吟じたというのです。
“七重、八重、花は咲けども山吹の 実の(蓑)一つだに無きぞ悲しき”
せっかく黄金の花を咲かせている山吹、しかし残念ながら一粒の実も結ばれていない。「お貸しする実の(蓑)一つさえございません」ということだったのです。
イエス様のたとえ話は、黄金の山吹ならぬ「ぶどう園に植えられた無花果」です。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りにきたが何も見つからなかった」とあります。昔から「桃、栗三年、柿八年」と言われ、無花果も植えてから二、三年で実を結ぶと言われています。このたとえの無花果は何年前に植えられたものかは分かりませんが、「三年もの間待っていた」ということですから、十分に良い実をならせる時期は過ぎていたと考えても良いでしょう。
ところが毎年毎年、期待して待つこと三年が過ぎ去っても一つの実も見ることができない。無花果はこの持ち主を裏切ってしまい、それでいて皮肉にもその葉っぱだけは青々と繁らせていたのかも知れません。あまりにも葉っぱの装いが見事なので、この持ち主は素敵な実を期待して走り寄ったのかも知れません。そして無花果は見事にこの御主人の期待を裏切ってしまったのです。それが三年も続いたというのですから、この主人の憤りは抑え難いものがあったのです。
そこで、このぶどう園の持ち主は、番人に命じてこれを切り倒してしまえ、と言うのです。「見なさい。三年もの間、やってきてはこのいちじくのなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか・・・」(ルカ13:7)。
これを、太田道灌の前に山吹の花を持って現われた娘にあやかって一首詠むとすれば、このように吟じることができるかも知れません。
“期待して無花果の実を求むれど 三年にして一つだに無し”
無花果は大きな葉を繁らせる植物ですが、それだけに良い実が結ばれていないなら、これは謂わば偽善であり、裏切りであると言うほかありません。
そこで、この偽善と裏切りということを少しばかり考えてみたいのです。
まず、「偽善」ということ。福音書を開くと、イエス・キリストが律法学者、パリサイ人などに対し厳しく彼らの偽善者としての生活を責めておられるのを見ます。「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦で一杯です」(マタイ23:25)、「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は死人の骨や、あらゆる汚れたものが一杯です」(同23:27)とあります。
もう一つ、「裏切り」ということを考えさせられます。大きな葉を繁らせた無花果。その裏側には素晴らしい実がありそうに見えていたことでしょう。ところがその葉をめくって見ると、一つの実も結ばれてはいないのです。畑の持ち主を見事に裏切ってしまいました。
この偽善と裏切りというのは、私どもの生活の深い所に潜り込んでいて、私どもの人生を取り返しのつかない方向へと導く危険極まりないものです。そして、この偽善という言葉のギリシャ語はヒポクラテス、「お芝居を演ずる者」という意味なのです。私どもは、キリストの弟子を演じることができる。キリスト信者を演じ、教会の役員でも牧師でも巧みに演じて見せる危険性がある。私たちは本物か偽者かのどちらかです。そして偽者であるなら裏切り者となる。
ところで、この裏切り者ということについて少し考えてみる必要があります。
私たちはイエス様の弟子の一人、ペテロをよく知っています。ペテロはイエス様に対して、「どこまでも、死に至るまであなた様に従って参ります」と申しました。しかし、主イエスが捕らえられ、一人の女に「あなたもあの人の弟子でしょう」と指摘されると、「私はその人を知らない」と言い、三度も誓って知らぬ存ぜぬと言ってイエス様を裏切りました。イスカリオテのユダも裏切り者となり、彼はさらに積極的にイエス様を奴隷一人の値段で敵の手に売ってしまいました。後の後悔、先に立たず。首を吊って自殺して果てるという悲惨な一生となってしまいました。
ところで、この無花果のたとえ話は、実を結ばなかった無花果の樹が根こそぎ切り倒されるところを、庭の番人によって守られたことが語られています。「番人は答えて言った。『ご主人。どうか、今年一年そのままにしてやって下さい。木の周りを掘って、肥やしをやってみますから・・・」(ルカ13:8)とあります。
この庭の番人とは一体誰なのか。私たちはこの心優しい、しかも真実、真剣な番人の中にイエス様の姿を見ることができます。実を結ぶことの少ない、否、ろくに実らしい実を結んではいない者のためにとりなし祈って下さる主イエスの故に、我々は今後に期待されつつ生きながられることが許されているのです。番人は、とりなすだけでなく、「木の周りを掘って、肥やしをやってみましょう」と申しています。この言葉をしっかり受け止める必要があります。つまり、私どもは、今も主イエスの御信任を賜り、未来に対して期待されているということなのです。日々悔い改め、日々御言葉と祈りの中に生き、未来の栄光に満ちた希望に生きるなら、私どもは必ず素晴らしい実を結び、神と人とに喜ばれる者となれるのです。
私は、このイエス様のたとえ話を瞑想し続けて参りました時、パウロがピレモンという人に書き送った手紙の一節が示されました。それをお読みしてこの御言葉のメッセージを終わりたく思っています。では、読んでみます。「私は、あなたの従順を確信して、あなたにこの手紙を書きました。私の言う以上のことをして下さるあなたであると、知っているからです」(ピレモン1:21)。
ご存知の通り、これはパウロがローマの獄中からコロサイのピレモンという人に書き送った手紙の一節です。ピレモンの元で奴隷として仕えていたオネシモは、ピレモンの元を脱走してローマに逃げ延び、獄中に軟禁されていたパウロに出会い、イエス・キリストへの信仰を告白するに至り、役立たずの人生から有益な人生へと打って変えられ、パウロの手紙を携えて主人ピレモンの元へと帰って行ったのでした。パウロはこのオネシモが見事に改心して今は有用な人間、期待され期待に十分応え得る者となっていることを保証しているのです。また、オネシモは奴隷でしたが、今後は奴隷としてではなく、愛する兄弟として受け入れてやって欲しいとまで書いているのです。そして、先に読んだ所を繰り返しますが、「ピレモンさん。あなたは私が言う以上のことをして下さる」と言い切っています。
ピレモンはこの言葉に反発するどころか、これを従順な心で受け止めたのです。そして奴隷オネシモの逃亡を赦しただけでなく、自分の家族同様の者として受け入れ、その結果、オネシモは優れた教会の指導者として立てられるに至ったのでした。物事を全て謙虚な心で受け止め、よく吟味し、理解を深め、従順に従う者となる時、神と人との期待に応えて、豊かな実を結んで参ることができることを確信したいものです。アーメン。
藤後朝夫(とうご・あさお):日本同盟基督教団無任所教師。著書に「短歌で綴る聖地の旅」(オリーブ社、1988年)、「落ち穂拾いの女(ルツ講解説教)」(オリーブ社、1990年)、「歌集 美野里」(秦東印刷、1996年)、「隣人」(秦東印刷、2001年)、「豊かな人生の旅路」(秦東印刷、2005年)などがある。