1.ハウ(How)の洪水
「真理はあなたがたを自由にする」と、聖書にある(ヨハネ8:32)。私たちを自由にする「真理とは何か?」(同18:38)は、すべての人々の問いである。この真理がわからないがゆえに、私たちはその場しのぎの細切れの真理らしきもの(方法論)に頼って生きざるを得ない。
さまざまな問題を解決するために、世はハウ(How)、すなわちハウツー(How to)とノウハウ(Know‐How)で満ちあふれている。まさにハウの洪水である。「○○健康法」「△△美容法」「××勉強法」等々。
法律もハウの一種である。国と人、人と人との間をどのように規律すべきかというハウである。社会が複雑になればなるほど、その中で正義と公平を実現するために法律や規則や判例がどんどん作られていく。
それらはあまりにも多いため、法律の専門家でも十分にフォローすることが難しいほどである。最近ではコンピューターによる検索システムが整ってきて必要情報の入手は比較的容易になりつつある。しかし入手した大量の情報を整理し、正しく分析するのは大仕事である。
それでも、いざ問題の解決のために法令、判例を調べていくと、最も知りたいポイントについては何も解答がないことが多い。結局、法や道徳の基本精神に戻って自分で考え、自分で判断するほかない。
2.ハウ(How)の限界
ハウはいかにすぐれたものであっても、一時的な対処法にすぎない。応急措置にすぎない。不変の真理ではない。普遍の法則でもない。それは一定の時期、特定の状況(条件)に限って有効な方法論(仮説)にすぎない。
現に、かつて良いとされたハウが今では悪いものとされている例はあまりにもたくさんある。法律、経済、政治、医療、科学、市民生活のすべてにおいてそうである。そのために人々は絶えず新しいハウを模索し、新しいハウに寄り頼もうと必死になっている。一時的かつ限定的な対処法にすぎないハウを、普遍的な不変の真理として、あらゆる時にまたあらゆる場面に適用しようとすれば、かえって新たな問題を生み出してしまう。
ハウは人を自由にして生かすべき便利な手法であるはずなのに、人はハウにこだわればこだわるほど、それに縛られて自由に生きるいのちを失っていく。規則やルールが増えれば増えるほど、窮屈になるのは当然である。「○○健康法」等にこだわる人ほど、かえって健康を害する人が多いのではないか。
文明国ほど人々は本来の元気はつらつとしたいのちを失いつつある。勉強、勉強で、大学ヘ進み、大学院へ進みで、人生の大半を、しかも最も夢のある青年時代を、社会で実際に働かないで、社会へ出て生活するためのハウを学ぶ準備期間にしてしまっている。しかも、社会へ出ても死ぬまであの手この手のハウを修得しつづけなければならない。
これでは、私たちの人生は、ハウを学びハウを修得するためだけに費やされてしまう。自由に楽しく生き、人を愛し、建設的な働きをする余裕などほとんどない。剣術を習い、弓術を学び、馬術を訓練し、その他諸々の武術(ハウ)を習得しているうちに、一人前の武士になる前にその一生を終えてしまった武士志願者のようなものである。これは本末転倒である。
3.ハウ(How)からフウ(Who)へ
私たちは、ハウを超えて、もっと元気はつらつとして生きることができるはずではないか。しかし、ハウに頼って生きている人は、なかなかハウを超えて生きることができない。それでは、ハウを超えて生きるためには、どうすればよいのか。ハウ(How)ではなく、フウ(Who)、すなわち(誰か)に頼り、フウ(誰か)の助言、導き(ハウ)によって生きることである。
例えば、私たちは、病気にならないために、また病気をいやすために、ありとあらゆる医学的知識(ハウ)を学ぶ必要はない。有能な医師(フウ)の忠告を聞き、治療を受ければよいのである。
法的紛争に巻き込まれないように、また裁判に勝つために、ありとあらゆる法律知識(ハウ)を身につける必要はない。優秀な弁護士(フウ)の助言を聞き、事件を依頼すればよいのである。
けれども、誰もが有能な医師や優秀な弁護士にお願いできるわけではない。また、どんなに有能な医師も、いかに優秀な弁護士も、しょせんは人間にすぎない。絶対的に信頼できるわけではない。それではどうすればよいのか。
誰もが等しく最も信頼できる方、すなわち天地万物の創造主なる全知・全能の神(フウ)に聞き、その助言と導き(ハウ)に従えばよいのである。ニュートンもリンカーンもベートーベンもマザー・テレサも、また数え切れないほど多くの人々が、そのようにして元気はつらつとして生きてきたし、また現に生きている。
4.真理とは何か
聖書において、イエス・キリストは、「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と、自分のことを言っている(ヨハネ14:6)。イエスは自分を天地万物の創造主なる全知・全能の神と同位であり一体であることを宣言しているのである。これほど大胆な、革命的なことばがあろうか。世界の人類史上、イエス・キリスト以外にいったい誰が、このようなことを言ったであろうか。また、真実に言えたであろうか。
私たちはいろいろな道や真理や長寿を求めているが、「唯一の道はイエスである、不変の真理はイエスである、永遠のいのちはイエスである」と、聖書は言うのだ。言い換えれば、イエスを信じて、イエスともに生きることこそが、神の国への唯一の道を歩むことであり、宇宙万物を貫く不変の真理を知ることであり、この世の肉体のいのちを超えて神の国に永遠に生きることなのである。私たちを自由にしてはつらつと生かすべき本当の真理とは、イエス自身のことである。人間の考え出した「○○法」とか「△△術」とか「××の法則」ではない。
聖書によれば、イエス・キリストこそが、最高の医師であり、最高の弁護士であり、また最高の教師である。キリストを信じるならば、誰もがその信じる度合いに応じて、最高の医療を受け、最高の弁護を受け、最高の教育を受けることができるのである。
この方(フウ)を信じ、この方の助言と導き(ハウ)によって生きるならば、人生全般にわたり、あらゆる時にあらゆる場面において、あらゆる問題に対して、臨機応変に正しく対処して生きることができる。だから、明日のことを思いわずらうことはない。いや、どんなことも思いわずらうことはない。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝して生きることができるのである。
言うまでもなく、キリストの助言と導きの原点は、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」という言葉に帰する。愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛はあらゆる律法(ハウ)を完成するものである(ローマ13:8〜10)。
佐々木満男(ささき・みつお):弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。