「私は、私を強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです」(ピリピ4:13)
不景気の風吹き荒ぶ中、心を曇らせるニュースが毎日のように報ぜられています。私どもの住む世界は常に揺れ動き、順風満帆の時があるかと思えば、逆境の嵐にさいなまれることもあります。
不安定な世にあって、人はこれにどう対処するか。生きることが怖くなり、勇気をもって大胆に生き抜くことができなくなる人がいます。しかし、聖書は私どもに勇気をもって力強く生きる道を教え導く神の言葉なのです。
「私は、私を強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです」と言い切っています。パウロは、そう言い、言うこととやっていることがまるで違っていると言われるような生き方はしませんでした。パウロは神の言葉の生き証人であったのです。
そこで、まず人間的な努力について考えてみましょう。まずは、やる気の問題です。ベンジャミン・フランクリンは「天は自ら助くる者を助く」と言いました。世の中で苦労を重ねて生き抜き、何事かを成し遂げた人というのは例外なくやる気を失わなかった人です。DLカーネギーの『人を動かす』という著書は、私に聖書を読ませる動機の一つとなったものですが、その言葉に「不可能だと思わない限り、人間は決して敗北しない」とあります。また、英国の政治家マクドナルドという人は「およそ世に障害のない仕事はない。もし障害のない仕事があったら、それは値打ちのない仕事だ。障害が大きければ大きいほど、その仕事も大きい」と申しているのです。
日本ではキリスト者の数が、何年経っても人口の1%ということで、迫害こそありませんが、何か目に見えない大きな障害物が横たわっているのを感じます。しかし、それだけにこれは大きな働きであるに違いありません。「私を強くしてくださるお方」が盾となっておられることを信じて、福音の証人として生きたくはありませんか。
世間にはよく、信仰は弱虫のすることだ、とか、触らぬ神に祟りなしなどと申して、信仰に関するものは盲目的に避けようとします。それでいて、占いとか、方位方角、大安だとか仏滅といったものに惑わされていたりします。
では「私を強くしてくださる方によってどんなことでもできる」とはどのような意味でしょうか。
魔術師は何もない空間から鳩を飛ばして見せたり、一枚の紙切れを高価な札束に変えてしまうこともありますが、パウロが言う「どんなことでもできる」とは、そのような意味でないことは申すまでもありません。確かに神は「光あれ」と言われ、直ちに光が存在したのです。旧約聖書の創世記1章には、神の言葉が一言発せられるや、その言葉通り全てのものが種類に従って創造されたと記されています。人間もその言葉によって造られ、長い長い進化の過程を経る必要があったとは言われていません。
パウロの信じた神は、このような天地万物の創造者としての神であり、この神が信じて従う者の背後で見守っていて下さるなら、どのような困難に遭遇したとしても、御心に適うことは必ず祝され、成し遂げられるという前向きな信仰であったのです。
誰が申した言葉であったか、私の心に深く留まっている言葉に「不可能を欲す」というのがあります。これは、簡単にできてしまう安価安直な目標や計画を言うのではないでしょう。強固な信仰に堅く立ち、忍耐と希望をもって成し遂げようとする事柄を言うに違いありません。
私どもが大切にしてきた五千円札に有名な新渡戸稲造の顔がありました。札幌農学校から東大に進み「何のために英文学をやるか」と問われて答えた言葉が「我、太平洋の架け橋とならん」であったとのこと。「彼の一生は正にこの言葉通りであった」と言われています。私どもも大きな夢と希望を持って、強くして下さる方に全幅の信頼を置いて、人間としての務めを果たして参りたいものです。
藤後朝夫(とうご・あさお):日本同盟基督教団無任所教師。著書に「短歌で綴る聖地の旅」(オリーブ社、1988年)、「落ち穂拾いの女(ルツ講解説教)」(オリーブ社、1990年)、「歌集 美野里」(秦東印刷、1996年)、「隣人」(秦東印刷、2001年)、「豊かな人生の旅路」(秦東印刷、2005年)などがある。