私はペテロ。元ガリラヤ湖の漁師です。前回、私はイエス様が「沖へ漕ぎ出し網を降ろして漁をしなさい」と言われ、その通りにしたところ、思いがけない大漁を見るという経験をしたことを話しました。
さて、今回はあの大漁の後どうなったかをお伝えしたく願っているのです。捕れた魚で舟が沈むかと思われる喜びの中で私たちは陸に上がることができました。そんな大きな満足と喜びの中にあって、私はうちにもう一つ、何とも言えないただならぬ気持ちに襲われ、そしてイエス様のお顔をまともに見ていることができなくなってしまったのです。
私はイエス様の前にあまりにも醜い自分であることを認めずにはおられなくなりました。そして、私はイエス様の足元にひれ伏し、「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者なのです」と申し上げたのでした。
なぜ、そのようにしたのかと申しますと、イエス様は漁師ではないのですが、漁師以上に湖の深い、肉眼では見えないところまで全部見通しておられる方であることに気付かされたからです。つまり、この方は、私が自分のことを知る以上に、否、私が気付いていない心の内に隠れている全てを見抜いておられる、ということであったのです。
しかし、そのような自分に対するイエス様の態度は、全く予想を超えるもので、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になるのだ」と申され、恥ずかしながらこの時を期して新しい人生の出発点に立ち、このお方の弟子の一人に加えていただいた次第です。
さて、私は今回、あなたに知って欲しいことが一つあるのです。それは、人間の心に深く根を下ろしている罪という問題です。罪と言ってもこれは法律上のものではありません。法を犯せばもちろん罪を犯したことになるのですが、聖書が示す罪というのはそれ以上に深いところに根差していて、神を神として崇めず、人を尊敬したり愛したりし親切に生きようとせず、自己中心的な生き方、高慢で他人を見下したり悪口を言い触らしたり、その反面、いかにも人の良い人間を演じて見せようと振舞う偽善者でしかない―あなたは如何ですか。私は、その事実をイエス様から突き付けられ、しかも、このお方は私をお裁きにならず、豊かな赦しと忍耐と寛容の限りを尽くして見守り、導いて下さったのです。
人々は、この方を十字架に追いやり、殺してしまったのですが、この方はその十字架の苦しみの中から、「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのかわからずにいるのです」と言って祈られたのでした。
私は罪深く醜い人間です。しかし、私は、この方が真の救い主であることを確信していますので、その証しを書かせていただきました。イエス様を救い主として受け入れて下さい。
藤後朝夫(とうご・あさお):日本同盟基督教団無任所教師。著書に「短歌で綴る聖地の旅」(オリーブ社、1988年)、「落ち穂拾いの女(ルツ講解説教)」(オリーブ社、1990年)、「歌集 美野里」(秦東印刷、1996年)、「隣人」(秦東印刷、2001年)、「豊かな人生の旅路」(秦東印刷、2005年)などがある。