「天には星、地には花、人には愛が不可欠である」とゲーテは言った。「力による解決」、「知恵による解決」に次いで、問題解決の第3の方法は、「愛による解決」である。この「愛による解決」こそが、最も有効な解決方法である。
人間関係にまつわる問題の原因のほとんどは、「愛の欠如」にある。友人関係のトラブル、家庭の不和、職場の問題、ビジネスの問題、教育の問題、政治の問題、国際間の紛争のもとをたどれば、常にそこに「愛の欠如」を見いだすであろう。お互いに思いやり、愛し合うことができるならば、そもそも問題は生じない。万一問題が生じても、すぐに解決していくのである。
神の限りない愛
天地万物の創造主の属性の一つは、その限りない愛である。聖書には「神は愛である」と繰り返し書かれている。愛こそは神の最も重要な性質(本質)である。いわば神の性質の中核である。神の限りない愛は、神の偉大な力よりも、神の偉大な英知よりも、はるかにまさる。なぜなら、神に愛がなければ、神の力も神の知恵もむなしいものであるからである。広大な宇宙も、美しく咲く花も、ただ存在しているだけであれば、「ああ、大きいなあ」「ああ、きれいだなあ」で終わってしまう。自分とは本質的な関係はない。
神は人間を愛するがゆえに、人のために天地万物を創ってくださったと、聖書に書かれている。自分が神にそのように愛されていることがわかれば、何もかもがすばらしい意味を持つようになる。それら被造物を通して、人は神の恵みを受け、神を讃え、神に感謝し、神を愛することができるようになるのである。たまたま道に落ちていたダイヤモンドの指輪を拾ったのと、愛する婚約者からそれをもらったのでは、その意味が全く異なるのと同じである。そこに愛があるから、心の深い所で結ばれる生き生きとした関係が生み出されるのである。
そもそも神が人を創ったのは、神と人が相思相愛の関係を持つためである。単にいろいろなものを創ってオモチャのように並べたり動かしたりして楽しむためではない。神は人に、「わたしは限りない愛をもってあなたを愛している」と語りつづけている。(エレミヤ書31章3節)
人間の愛
愛のない人間関係は本質的にむなしいことは誰でも知っている。愛のない夫婦関係、親子関係は、そこにどんな力と知恵があったとしても、決して深い満足と喜びを生み出さない。主従関係、師弟関係、友人関係もみな同じである。
ところが、熱烈な恋愛によって結婚した夫婦が、ちょっとしたことが原因で別れていく。仲の良かった兄弟が、遺産相続をめぐって骨肉の争いをする。長年にわたって築き上げてきた仲間同士の信頼関係が、ささいな誤解で崩れて訴訟にまで発展してしまう。人の愛はその程度のものである。
人の愛をどこまで高らかに歌ってみても、どこまで切々と書いてみても、そこにはむなしさが残る。実際はそれほどのものではないことを、誰もが知っているからである。
それではどうしたら良いのか。どうしたら神のような無限の愛を持つことができるのであろうか。聖書によれば、それはイエス・キリストを信じることによってのみ可能である。キリストを信じるとは、聖書のことばを信じることによって、心の深い所で神であるキリストと現実に出会い、お互いに結ばれるという体験をすることである。単に頭でキリストの教えを信じて、これを実行しようとすることではない。また、形式的にキリスト教の洗礼を受け、毎週日曜日に教会に通うということでもない。心の深い所すなわち霊の次元において神のいのち(愛)と結ばれるということである。
神の律法
「天地万物の創造主が人(イエス・キリスト)となってこの世に現れてくださった」というのが、聖書に書かれている驚くべき真理である。これはまさに聖書全体の中心テーマである。
それは一体何のためか。罪によって壊された人と神の相思相愛の関係を回復するためである。神の律法に対する人の罪を許すために、律法の創設者たる神が、自らを罰するためである。
神の律法は、「汝唯一の神のみを崇めよ、汝の父母を敬え、汝殺すなかれ・・・」というモーセの十戒に要約される(出エジプト記20章3〜17節)。ひとことで言えば、「神を愛し、人を愛しなさい」ということである。世界各国の道徳や法律の根底には、神の律法すなわちモーセの十戒の精神が貫かれている。神の律法は、神と人、人と人とを律する神の絶対的秩序である。その律法の一部にでも違反する者は、神の前に立つことはできない。すなわち神とともに永遠に神の国に生きることはできない。これを「永遠の滅び」と言う。
人間はその罪の性質のために誰一人として生涯にわたって神の律法を守り通すことができない。しかし、神はそのご性質から神の絶対的秩序である神の律法を曲げることができない。それゆえに、人を永遠の滅びから救い、人に永遠の命を与えるためには、律法の創設者たる神ご自身が犠牲になって罪なる人の身代わりにならなければならなかったのである。こうしていわば超法規的救済をしてくださったのである。完全な比喩ではないが、重罪を犯して死刑囚となっている愛する息子を救うために、罪のない父親が身代わりになって死刑に処せられたということである。
十字架の愛(最高の愛)
これがキリストが十字架に架かって死なれた真の意義である。「人が友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と語り、自らそれを実行したのである。これは神の究極の愛の現実化である。キリストの愛は、あまりにも高く、深く、広く、熱いために、人の頭脳(知性・感性)ではとうてい理解することができない。心の最も深い所(霊性)において、その真理(愛)のいく分かをとらえることができるのみである。
キリストを信じてはじめて、人は神の無限の愛を知り、これを受けることができるようになる。そうすると、その人の心から神の無限の愛があふれ出てきて、他の人をも愛することができるようになる。
汝の敵を愛せ
朝鮮動乱のときに韓国の孫良源牧師は、最愛の息子2人を殺された。けれども孫牧師は息子を殺して捕まった犯人を直ちに許したばかりか、その釈放を当局に嘆願して特別に聞き入れられた。さらに死刑になるはずの犯人を心から愛して自分の養子(孫載善)として自宅に迎え入れ、立派に養育した。
第二次世界大戦によって日本から最も甚大な被害を受けたのは、中華民国である。しかし敗戦国日本に対して、戦勝国中華民国の蒋介石総統は、世界の歴史上まれにみる寛大な措置をとった。
それは、天文学的数字にのぼる巨額の戦争賠償金の対日請求権の全面破棄、戦勝連合国による日本4分割占領の阻止、中国大陸の200万人を越える残留日本軍民の安全帰国の早期実現、天皇制の存在を日本人の考え方にゆだねること等である。
なぜ蒋介石はこのような寛大な措置をとったのか。それは熱心にキリストを信じていた蒋介石が、「汝の敵を愛せ」(マタイの福音書5章44節)、「怨みに報いるに徳をもってせよ」(ローマ書12章21節)の聖書のことばに従って、これを実行したからである。戦後日本の平和維持と経済発展は、蒋介石による隣人愛の実行なくしてはありえなかったと、言っても過言ではない。キリストを信じて神の無限の愛を受けなければ、誰がこのような愛を実行できるであろうか。ここに復讐を美化し、「忠臣蔵」を讃える日本文化の大きな限界を見るような気がする。
このように、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ」と言い、それを自ら実践したキリストの愛こそが、問題解決の最も強い要素である。キリストの愛すなわち神の愛は、他人のために自分を犠牲にする愛であり、どこかの宗教家のように自分のために他人を犠牲にするようなものでは全くない。
佐々木満男(ささき・みつお):弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。