福音書から受けるイエスの印象は、エネルギーの塊のような男らしさだ。イエスは権威をもって教え、癒やし、悪霊を追い出した。その力が聖霊から来たことは明らかであり、聖霊こそイエスの力の源であった。その聖霊を受けた器としてのイエスについて考えたい。ここでは、イエスの自己愛について調べてみよう。
イエスが父なる神を愛し、人々を愛していたことはひんぱんに語られるが、イエスがこのうえもなく自分を愛していたことは、あまり知られていない。力の源である聖霊を解放できたことは、彼の自己愛と密接に関係している。
彼の魂の底流には神と人々への愛、それに自己愛があった。イエスが自分を愛していた証拠をリストしてみよう。
1. イエスは自分を拒絶したことが一度もない。「大酒のみの食いしん坊」、また「悪霊の頭ベルゼブル」と呼ばれても少しも揺るがなかったのは、自分を深く知り、また受け入れていたからである。
2. イエスは自分に与えられていた才能と賜物を最大限に生かした。教えること、物語を語ること、質問に応えること、対決時に論議することなど、彼はことばの賜物を十分に用い、また生かした。霊的な賜物も十分に駆使した。知識、知恵、預言、癒やし、信仰、力あるわざ、霊を見分ける賜物など、異言以外の賜物は豊かに、また適切に用いたのだ。
しかし、彼は自分が入るべきではない領分をよく心得、決して僭越なことをしなかった。誘惑の時に「石をパンに変え」「宮の頂上から飛び降りる」などのことをして、自己アピールなどしなかったし、する必要も感じなかった。彼は自分と賜物を十分生かすとともに、越えてはいけない境界線を越えることはなかった。これは自分を知り、自分を受容していたことの証拠である。
3. イエスは話の中で、目、口、耳、手、足、背丈など、肢体についてよく語られたが、それは自分のからだつきを受け入れていた証拠である。福音書記者は、イエスの背丈、体型、目や耳や口や鼻の形について沈黙している。ハリウッド映画が描くような極めて美しい顔かたちではなかったかも知れない。とにかく、イエスは自分のからだと調和していた。
4. ローマの属国とされたイスラエル国だったが、自国を恥じることはなかった。継承した民族歴史、出身地の寒村ナザレ、家族、文化、信仰などを愛してやまなかった。世界の国民に福音を伝えよと命じたが、ご自分の民に対して特別に深い愛を持っていた。
5. 最も困難な使命を受け入れ、遂行された。どんなに苦しいことであろうと、意味あることのために自分を注ぎ出すことができるのは、自己愛の証拠である。彼にとって、最も意味あること、また喜びを与えたことは、父なる神の意志を行うことであった。
疑う余地がないほど、イエスは自分を愛していた。イエスの権威あることば、揺るがない確信、攻撃された最中でも乱されない安心感などは、明確な自己理解と自己愛に由来した。自分は誰なのか、どこから来たのか、どこへ行くのか、何をしなければならないかを知り、そのすべてを受容していた。
イエスの愛についての理解は決して独自のものではなく、聖書から学んだものであった。
すなわち
・あなたの主なる神を愛すること。
・自分自身を愛すること。
・自分を愛するようにあなたの隣人を愛すること。
まさしく、イエスは「心を尽くして」神と自分と隣人を愛したのだ。私は確信する。血の滴りのような汗を流して苦闘したゲッセマネ、ローマ兵の鞭を受けたとき、十字架の苦しみを耐えさせたのは、御父と人々、それに自分を愛するという三重の愛にあったのだ。
ここで、私たちがどれほど自分を愛しているか調べてみよう。思っているほど自分を愛していないかも知れない。
1. あるがままの自分を受け入れているか。現実の自分と向き合っているか。それとも、白昼夢の中で、自分でない自分を思い浮かべているか。
2. 自分の才能を喜び、最大限に用いているか。それとも他人の才能をうらやましがっているだけか。自分の才能の豊かさと用いる限度に気がついているか。
3. 自分の性別、生まれた家族、年齢、境遇を受け入れているか。
4. 自分の結婚あるいは独身(イエスは未婚)、子どもについて肯定しているか。
5. 自分の顔かたちや体型を肯定できるか(大好きではないにしても)。
6. 「私を愛しています」と、ズバリ言えるか。
「自分探し」という、かっこいいことばが流行しているが、多くの人は自分が誰であるかに確信が持てない。それで自分を見つめるのだが、長年たってもいまだに自分探しをしている。自分は現実ここにいるのに、素敵なのに、才能があるのに、他人を助けることができるのに、大いなる可能性を持っているのに、気がつかないのだ。自分を軸として捜し回っても、ぐるぐると空回りするだけだ。自分以外に関心を持たないと、自分が見えなくなる。他人とも自分ともつながらない。
イエスは自分をこよなく愛したために、自分から自由だった。彼は、そのよい自分を他者のために提供した。彼にはナルシストのかけらもない。彼は「一粒の種が地に落ちて死ななければ一粒のままだ」と言われ、死によって最大限に自分を生かすことを信じて、十字架に向かった。
私たちは、イエスから真実の自己愛を学ばなければならない。
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平野耕一(ひらの・こういち):1944年、東京に生まれる。東京聖書学院、デューク大学院卒業。17年間アメリカの教会で牧師を務めた後、1989年帰国。現在、東京ホライズンチャペル牧師。著書『ヤベツの祈り』他多数。