現内閣総理大臣の安倍晋三首相は、昨年12月に参議院本会議で改正教育基本法が成立した際に、「この教育基本法の改正をスタートとして、教育の再生に全力で取り組んでいきたい」と力をこめて主張した。「教育再生」は安倍内閣の最重要課題の一つだ。
この「教育再生」を実現化させるため、安倍首相は文部科学省とは別に首相官邸主導の「教育再生会議」を発足し、従来の枠組みを超えた抜本的な教育改革の実行を目指して日々邁進している。子供たちの学力低下やいじめ問題に代表されるように、日本の学校教育現場には現在課題が山積みだ。このような現状を打開するために、政府が第一陣として名乗りをあげたことは重要な一歩だと考えられる。
しかし、政府がいくら良い政策を打ち出したとしても、それが実際に教育現場を担う教師に伝わらなければ無意味だ。「教育再生」を成功させるための制度・方針を作るのは政府だとしても、それを実際に行動に移すのは現場の教師なのだ。
教師は「第二の親」とも言える存在だ。安倍首相いわく「国の宝」である子供たちを、立派な大人として育てる責任があるのは親たちだけではない。「6年3年3年」という日本の教育過程において、子供たちが自分の親よりも長時間接することになる教師が、子供たちの人格形成や将来に及ぼす影響は大きい。だからこそ今、教師の在り方をもう一度問い正す必要がある。
今学校教育現場において最も深刻な問題は「いじめ」だ。最近のニュースを見ていると、いじめが原因で自殺する子供たちが後を絶たない。
いじめが発生するクラスには典型的な傾向があるという。その一つが、教師が子供たちに無関心であるということだ。なぜ無関心になるのか。一言で言えば、子供たちに対する「愛情」が欠如しているからである。
今の教師たちに根本的に足りない要素は、子供たちに対する「愛情」だ。価値観が多様化された現代社会に生きる中で、子供たちを指導する上で最も欠くことができない要素である「愛情」を見失ってしまった教師が多い。
「愛」を最もよく教えている教科書は聖書だ。教師には聖書から「愛」とは何なのかを学ぶように勧めたい。
聖書に描かれている「愛」とは何か。主イエス・キリストの贖いの十字架で明らかにされた神の愛とは、すなわち「犠牲」だった。また使徒パウロは、コリント人への第一の手紙13章で、愛とは寛容であり、親切であり、人をねたまず、自慢せず、高ぶらないものだと教えている。さらにパウロの言葉を借りれば、愛とは「人の徳を高める」ものであると聖書は教えている。
教師たちはこの主の愛に倣って子供たちを指導するべきだと考える。犠牲のこころは他人への配慮を生み出し、さらに自己否定と謙遜な奉仕へとつながる。
弱い者と強い者が混在するいち学級において、教師に求められるのは生徒一人ひとりに対する公平な姿勢と態度だ。神の御姿であられるイエス・キリストが神のあり方を捨てることができないとは考えず、御自分を無にして仕える者の姿をとられ、死にまで従順されたように、誰にでも平等な姿勢は明確な自己否定から始まる。キリストの生に倣い、万人に対する愛の目で生徒たちを公平に見ることが教師に求められる。
教師は常に、弱いものと強いものの間の中立的な位置に立ち、仲裁を試みるべきだ。教師は、「正しいことは正しい」「間違っていることは間違っている」と毅然とした態度で主張しなければならない。
教師が偏見を持つことは禁物である。親離れを始める年頃の子どもたちが、まず最初に大人像の典型として捉えるのは「学校の先生」ではなかろうか。とすれば、教師が教室内で日本社会に顕著に見られる弱肉強食主義を展開すれば、子どもたちもそれに習い、偏見的な社会悪が踏襲されてしまう結果になりかねない。教師を見て子どもたちが育つということを忘れないで欲しい。
強いもの(多数派)が勝ち、弱いもの(少数派)が負けるという図式を教育現場において教えることは極めて危険なことだ。子どもたちは、このような弱肉強食的な関係図を学校で学び、それを「正当なこと」として認識してしまったことで、慢性的な「いじめ社会」が日本に浸透する結果となった。
一方、教会に「いじめ」があるという話はほとんど耳にしない。教会では常に主の御言葉が宣布され、牧師が主の愛に倣って牧会し、信徒たちが主を中心として、愛の心をもって互いに接するからだ。
愛があるところでは徳が高められ、道徳感が身につく。日本にもキリスト教系の学校教育機関が数多く存在し、聖書信仰を基本とした学校教育が行われているが、そのような教育機関で学んだ子どもたちは健全で偏りのない大人として成長する傾向がある。これこそ、子どもたちの人格形成において聖書が大きな役割を果たしていることの確かな証拠である。
教師とは子どもたちの管理者であり、牧者だ。羊の行き先は羊飼いである牧者が導くのである。教師たちが福音の真理に根ざし、盲人の手引きとなることなく、健全な道へと子どもたちを導いてあげてほしい。