イエスによって、父である神に感謝しなさい。(コロサイの信徒への手紙3章17節後半)
昨日の朝、夢を見ました。夢の中に中学生の頃の長男が現れました。息子に気前良く小遣いをあげているところで夢から醒めました。とても嬉しい夢でした。息子は今、弁護士をしております。時々、息子たちの幼少時代を思い起こします。私は息子たちにとって厳しい父親だったと自認しております。叱るときは厳しく叱るのが父親の愛情だと自覚していたからです。いずれ親元を離れるときが確実に訪れます。それまでに、1人の人間としての、人生に対する基本的な態度を教えることが親としての態度であり、大切な責務であると心得ているからです。それは今も変わりません。しかし、息子たちに対するかかわり方は厳しかったのでは、と自省することが多々、いや大いにあります。人は誰でも子に対する親のかかわり方、親に対する自分のかかわり方を内省するとき、ほろ苦くなってしまう思い出があるものです。
そこで御言葉を黙想します。「そして、何を話すにせよ、行うにせよ」(17節前半)、すなわち「言葉」と「行為」を伴った生活を思いめぐらします。言葉と行為の一致を「言行一致」と言います。そうありたく願う。しかし残念なるかな、私たちは往々にして「言行不一致」と言わねばなりません。それ故に人知れず涙することがあり、ときにはそれを指摘される場合もありましょう。それは人間の性であり、弱さです。正確に言えば、部分的な弱さというものではなく、人間の本質そのものです。にもかかわらず言葉と行為の言行一致を標榜する人間の底知れぬ欺瞞があります。すべてイエスの名によって言葉を口にし、言葉を行為によって表わすことができれば何と幸いなことか・・・。しかし現実は、なかなか容易ならざるものがあり、それをお互いに認識している故に馴れ合いの人間関係にもなり、あるいは緊張を秘めた人間関係にもなります。赦しの奇跡の分かち合いは、現実にはなかなか容易ではないことを熟知しております。だから奇跡の分かち合いなのです。
コロサイの信徒への手紙は、言葉と行為を「すべて主イエスの名によって」と言明します。それはイエスさまを仲介者にしなければ成り立たないからです。イエスさまのとりなしがなければ私たちは、言行不一致に思い悩んでしまうだけです。それも中途半端な思い悩みではなく深い絶望のどん底に陥ってしまうとき、人は我執の囚われから解き放たれます。かつてパウロは、耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。そして死の宣告を受けた思いの中で、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神さまを頼りにするようになりました(コリントの信徒への手紙二1章8節以下)。そのような絶望のどん底から希望に向かうという人生のどんでん返しを経て、ようやく達し得たパウロの結論が「主イエスの名によって」でした。それを見失ってしまうとき、私たちの人間関係は責め合ったり誤魔化し合ったりする人間関係に低落してしまうものです。そこで視点を変えます。何を話すにせよ、行うにせよ、それはイエスさまの和解の福音によって言葉と行為の真実を見るということです。ブルームハルト牧師は、すべての人をイエスさまの赦しの光で見るように心がけました。それは神さまの無条件愛に生き(聖なる領域)、赦しの奇跡を分かち合う(俗なる領域)ことに他なりません。
私は献身の促しを起こされて(1967年2月頃)、早43年が経ちました。高校卒業間近に立てた献身の決意を今静かに思いめぐらします。確かに牧師にはなりましたが、牧師であることが決して容易ではない身のほどを思い知らされます。世間の時流に乗ろうと思えば決してできなくはないのですが、時流を越えて普遍的な原則に従って生きようと願うとき、いつも自身の言葉と行為の狭間で思い悩まされるのです。それと往々にして言行不一致の牧師たちを見てしまいます。しかしそれは自分では見ることのできない自分自身の現実でもあることが分かります。そこで、導かれた御言葉を読みながら、こう確信するに至りました。「主イエスの名によって」ということは、イエスさまが私たちを通して御業を行ってくださるということです。パウロは、こう告白します。「他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」(コリントの信徒への手紙一15章10節)。神さまの恵みによって「言葉」と「行為」に生きること、それは「ねばならない律法的な責務感」からではなく、にもかかわらずイエスさまの福音の恵みによって神さまの無条件愛に生き、赦しの奇跡を分かち合うことに他なりません。
この頃、感謝する心の大切さを実感するようになりました。感謝することは容易のようでなかなか容易ではありません。容易に当たり前のこととして忘れてしまうからです。何かの本で読みましたが、不眠の悩みを訴える人はいても、安眠を感謝する人はなかなかいません。イエスさまによって、父である神さまに感謝することの大切さを知ります。ならば言葉と行為によって、それを具体的に表わそうではありませんか。ご一緒に礼拝を受け、感謝して心から神さまをほめたたえましょう。
津波真勇(つは・しんゆう):1948年沖縄生まれ。西南学院大学神学部卒業後、沖縄での3年間の開拓伝道、東京での1年間の精神病院勤務を経て1981年7月、多摩ニュータウン・バプテスト教会に着任。現在に至る。著作に、「マイノリテイ(少数者)の神」(1985年)、「一海軍少将の風変わりな一生の思い出」(1990年)、「出会い」(齋籐久美・共著、1991年)、「讃美歌集・主よ来たりませ」(1993年)、「沖縄宣教の課題」(2000年)。作曲集CD「生命の始まり」(1998年)、「鳥の歌」(2003年)。