「人生はやり直しがきかない」とはよく言われる言葉です。「もう一度生まれ変わることができる」などと言えば、真面目に耳を傾けてくれる人がいるでしょうか。
ところが、聖書には、それができるとあり、イエス・キリストは、「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」と申されました。
この言葉に初めて出会った人はユダヤ人の教師であり、議会の議員でありました。しかも、人生経験豊かな人格者で、ニコデモと言いました。
このニコデモにとってイエスさまは孫か息子ほどに年齢の開きがありました。しかし、ニコデモはイエスさまを大変尊敬しており、ある夜中にイエスさまを訪ね、この言葉を聞かされたのです。
イエスさまは、新しい命をもって人生の再出発の必要を説かれ、ニコデモは戸惑うばかりでした。
長い人生を生きてきて年老いて終わりも近くなった、その人生をもう一度やり直すことなど考えられないことでした。
しかし、イエスさまは新しい命を授ける事ができるからこそ、このように申しておられるのです。
新しい命は今すぐにでもいただけるのです。
しかし、その前に、今あなたが持っておられる命はどのようなものなのかを考えて下さい。(1)惨めで儚い命、(2)目的のない命、(3)汚れた命、(4)朽ち果てる命、なのではありませんか。
このような命を再生させるために、イエスさまはこの世界に来て下さったのです。イエスさまは、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ10:10)と言われました。
羊は弱く、愚鈍な動物で迷いやすく、孤立しては生きられないのです。人間も「私はそんな愚かで弱虫ではない」と胸を張る人がいるかも知れません。「いるかも」と言えるほど、そのような人は少ないのかと言うと、そうではなく、むしろ自分の弱さ愚かさを知らなかったり、認めようとしない人々の方が大部分と言っても言い過ぎにはならないかも知れません。
しかし、自分の弱さ愚かさ、迷える羊のような者でしかない、哀れな自分でしかないことを知って、真の羊飼いであるイエスさまの救いを求める人には命の道が示され、新しい人生の再出発をすることができるのです。
線は点を打つことによって始まります。イエスを信じる信仰は永遠の命の道の一点です。そこから無限に祝福された旅路が始まるのです。
藤後朝夫(とうご・あさお):日本同盟基督教団無任所教師。著書に「短歌で綴る聖地の旅」(オリーブ社、1988年)、「落ち穂拾いの女(ルツ講解説教)」(オリーブ社、1990年)、「歌集 美野里」(秦東印刷、1996年)、「隣人」(秦東印刷、2001年)、「豊かな人生の旅路」(秦東印刷、2005年)などがある。