詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。(コロサイの信徒への手紙3章16節後半)
かつて自身が学んだ神学校時代を思い起こします。20代の青春の日々を神学校に学ぶ機会が与えられたことは、私にとって繰り返しのない人生の大いなる財産です。神学校時代のことを思うとき、初めて学んだギリシャ語学習のことを真っ先に思い起こします。ギリシャ語単語の語形変化を覚えるのは、少し忍耐を要するものでした。しかし原語で聖書が読めるようになることに学ぶことの具体的な目標があり、それが励みにもなりました。不思議なものです。その頃、初めて覚えた語形変化の単語が「解く・緩める」という意味の言葉でした。当時、とにかく文法習得に追われる学びの日々を過ごしたものです。今頃になって初めて覚えた原語の意味を吟味しております。初めに帰ってこれからを生きたく願う。神さまの無条件愛に生きることはお互いに「赦しの奇跡の分かち合い」であり、それは自分を解き、緩めてあげることです。それはとても具体的なことです。讃美の力を活かしましょう。
私は、神学生時代を幾つかの神学校に学びましたが、学業に追われる神学校生活をどうにか過ごせたのも神学校のチャペルにオルガンがあったからです。1970年代の日本社会は、若者たちの間に甘ったるい情緒的な雰囲気が漂っていたように思います。(いつの時代も若者たちは、そうなのかも知れません。)教会の若者たちの間にもやはり感傷的な歌が流行っていたように思われます。ところで如何でしょう。当時、教会の若者たちの間に流行っていた歌のどれだけが、今に歌い継がれる礼拝の讃美歌として教会に用いられていることでしょう。やはり感傷的な流行の歌は、その時代と共に忘れられる類の一過性現象でしかなく、世々の教会の礼拝で歌い継がれる聖歌、讃美歌の歌詞には、礼拝共同体の信仰告白があります。神さまをほめたたえる讃美歌には私たちの魂を解き、緩める力があります。私にとって、学んだどの神学校も規律的な寮生活でしたが、静まったチャペルで独りオルガンを弾きながら讃美歌を歌うひとときは、魂を解き、緩める至福のときでした。
コロサイの信徒への手紙は、招かれて一つの体とされた教会の兄弟姉妹たちに「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」と勧めます。不思議なもので歌う声が合うと心が一つになるものです。私たちは、こうした共通体験を大切にしたいものです。その時々うなだれる魂を解き、緩みと癒しが起こされます。ときとして牧師の説教に怒って腹を立てる人はおられても、集会で聖歌や讃美歌を怒りながら歌っておられる人を見かけたことは一度もありません。私の仕える教会では毎週の主日礼拝に教会の讃美奉仕者による独唱・讃美がささげられますが、4月から始まる新年度は、毎主日礼拝会衆によって新しい讃美歌(日本バプテスト連盟発行「新生讃美歌」)を証しと讃美の奉仕に歌います。自分を赦すこと(解く・緩める)は具体的なことなのです。ここに書くということは説明的なことですが、讃美そのものは実践です。
ところで教会共同体の特徴は、礼拝共同体であるということを既に記しました。礼拝共同体とは別言するならば讃美共同体です。お互いに知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、心から神をほめたたえましょう。これは奨励以上の意味があります。「ほめたたえなさい」という命令形です。あえて申すまでもなく私たちには、世に在る限り「霊的な闘い」があります。自分を責めたてるサタンの誘いの声に負けないためにも「讃美の力」によって霊的に勝利しましょう。
確かに世々の教会に歌い継がれている聖歌・讃美歌は私たちの肉的な情を引き出す情緒的なものではなく、世々の教会に仕えるキリスト者たちの信仰告白です。感謝して心から神さまをほめたたえる讃美歌は終末時代を確かに生きる希望のメッセージです。このように神さまとの和解は、神さまの無条件愛に生き、讃美共同体の一員としてお互いが主の恵みによって赦しの奇跡を分かち合うことです。神さまに向かって讃美の声を合わせて心を一つにするとき、先ずは自分との和解が始まります。お互いに和解します。生きることは具体的なことです。具体的なことを書きました。
津波真勇(つは・しんゆう):1948年沖縄生まれ。西南学院大学神学部卒業後、沖縄での3年間の開拓伝道、東京での1年間の精神病院勤務を経て1981年7月、多摩ニュータウン・バプテスト教会に着任。現在に至る。著作に、「マイノリテイ(少数者)の神」(1985年)、「一海軍少将の風変わりな一生の思い出」(1990年)、「出会い」(齋籐久美・共著、1991年)、「讃美歌集・主よ来たりませ」(1993年)、「沖縄宣教の課題」(2000年)。作曲集CD「生命の始まり」(1998年)、「鳥の歌」(2003年)。