「その女はエリヤに言った。『今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。』」(1列王記17:24)
神のことばを託されたイスラエルの預言者中の預言者と言われるエリヤも、最初からバアルやアシュラ等の偶像崇拝者たちとの戦いに勝利できたわけではありませんでした。1列王記17章を見ると、少なくとも3年以上の訓練期間と、神からの厳しい3つの試練の体験を乗り越えなければなりませんでした。
このことは現代に生きる私たち普通の信仰者の生活にも当てはまる霊的な原則であり、例外はありません。もしも、エリヤが17章の3つの苦しい体験を乗り越えずに神のために奉仕したとするならば、主なる神への信頼を喪失して妥協したり、自分自身の力に頼ったり、あるいは次から次へと起こってくる困難に神のみこころを理解できず、戦いから撤退していたことでしょう。
エリヤがどのような取り扱いを神から受けたのかを、以下の3つに分けて見ていきましょう。
1.カラスに養われたエリヤ(1列王記17:1〜7)
カラスは世界中どこにでもいます。雀や鳩もどこにでもいますが、カラスの場合は嫌われ者です。ヘブル語の聖書を見ると、飢饉の間ケリテ川のほとりのエリヤのもとへ朝夕パンと肉を運んできたカラスは、「オルビーム(黒い者)」であったと記されています。もちろんエリヤは文字通り、しばらくの間カラスに養われたのでしょう。しかし一説には、オルビームはカラスではなく、「アラビーム(アラブ人=黒い人)」と考える神学者もいます。
いずれにしてもカラスであれ、アラブ人であれ、イスラエルの誇り高い預言者として自尊心もプライドも人一倍であったであろうエリヤが、カラス、あるいはアラブ人が食物を運んできてくれなければ餓死してしまうという恐怖にさらされているのです。
現代においても神は、信じる人々の生活問題を様々な方法で乏しいことのないように配慮してくださいます。
エリヤは、今まで自分が嫌がっていたカラス、あるいはアラブ人に自分は養われ、生かされた者なんだという、砕かれた心へと導かれたことでしょう。
2.瓶の粉と壷の油の奇跡(1列王記17:8〜16)
神は、ケリテ川の水が涸れると、エリヤをシドンのツァレファテのやもめのところへと導きました。そして、彼女の家にあった少しばかりの瓶の粉と壷の油を飢饉の間中、絶やすことなく供給し続け、エリヤも彼女の家族も長い間それを食べ続けることができました。
他人の家で居候することは、やはりエリヤであっても気を遣ったに違いありません。エリヤは自分が預言者だからといって、そのやもめの家で支配者のように振舞ったり、自分の思う通りにことを運ばせようとは決してしませんでした。エリヤはこのやもめの家族との生活を通してさらに低くなり、難しい人間関係の中で揉まれるという、預言者にとって必要な絶好の訓練期間を送ったのです。また、主イエスもナザレの大工の息子として、30年間家族との生活の中で揉まれるという体験をされています。
他人の中にいざ入ると、無理にでも自分の我(が)を押し通そうとする人々がいます。そのようなことであっては、神にも人にも受け入れられることはありません。
3.主のことばが真実である(1列王記17:17〜24)
やもめの家に滞在していた時、このやもめの息子が病気で死んでしまいました。
このやもめは、以前からエリヤのことを神の預言者と認めてはいましたが、毎日の生活に追われ、型通りの信仰に陥っていました。そして、神に選ばれ、彼女の家に遣わされてきた預言者エリヤを心から敬うことを忘れてしまっていたのです。そんなやもめが、エリヤの神への祈りを通して息子が生き返ったのを見た時、ついにはエリヤが神の人であり、エリヤの口にある主のことばが真実であることを知りましたと告白するのです(24節)。
一方、エリヤは、このやもめの息子のための祈りを通して、彼自身が祈りの器へと成長させられていったことがわかります(20節〜21節)。
また、18章でもエリヤは、顔をひざの間にうずめて祈り、神はその祈りに応えて大雨を降らせてくださいました。
17章全体におけるエリヤの飢饉の体験は現代にも当てはまり、アモスは8章11節で、主のみことばを聞くことの飢饉がくると預言しています。そういう時代にこそ、「主のことばが真実である!」という信仰に立たなければなりません。
エリヤが飢饉の時に受けた神からの取り扱いは、彼一人だけの取り扱いに終わることなく、彼とともに生活した者が生ける神からのみことばを信じて、堅い信仰へと立たせる結果を生み出しました。
田中時雄(たなか・ときお):1953年、北海道に生まれる。基督聖協団聖書学院卒。現在、基督聖協団理事長、宮城聖書教会牧師。過疎地伝道に重荷を負い、南三陸一帯の農村・漁村伝道に励んでいる。イスラエル民族の救いを祈り続け、超教派の働きにも協力している。