朝ごとに「今日もまた天国の一日です」と告白し、夜には、「ありがとうございます。今日もまた天国の一日でした。感謝します」と告白しながら、安眠で熟睡できる毎日を過ごしています。神様の贅沢な恵みにつつまれて、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝しています。
私たちは、食べ物や飲み水、休みの日や家族の団欒、心跳るような楽しい礼拝、クリスチャン兄弟姉妹との交歓、仕事場での生きがい、経済的な供給と需要など、豊かな恵みに囲まれて生きています。神のお与えになる全ての祝福をしっかり受け止めて、受けるだけでなく与える幸いを実行できる恵みにも感謝したいものです。
断食の時は、それらの恵みを受けるだけでなく、全身全霊を込めてただ神のみ顔だけを求め、神を待ち望んで祈りに集中するときです。
食物を断つときには飲水さえも取らないで、いま与えられている恵みを振り捨て、さらに偉大なものを待ち望みます。より重要な働きのために、今していることをさえストップして神を待ち望むのです。
断食は食物を絶つことですから、前回述べたように朝食も一つの断食です。夕方5時に食べると翌朝7時まで12時間断食です。ですから朝食を連続に抜いて断食するときもあります。普通は一日3食を食べないとか、3日間さらには7日間と長期間の断食があります。そして神様をのみ求めるのです。
また、単に食物を絶つだけでなく、水をも絶つ断食の例が聖書には記されています。「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます」(エステル4:16)
さらに、「モーセは民に言った。『三日目のために用意をしなさい。女に近づいてはならない』」(出エジプト記19:15)とありますが、夫婦の交わりも断ち、神様だけを求めることも大切です。
もう一つ大切なことがあります。それは聖書以外の書物や、新聞、雑誌、テレビやDVD、インターネットやそれらのものからも離れることです。
ある教会へ4日間ご奉仕に出かけた時、祈りの部屋で過ごしました。食事はいただいたのですが、精神的には全く断食と同じでした。書籍の類は一冊もなく、新聞もテレビもパソコンもありません。ただ聖書と祈りだけの生活でした。
終わってその夜は別の教会へ行き、路傍伝道の見学をしていたら、上品なご婦人が近づいてきて、翌朝その自宅へ招かれ、家族全員が福音を信じました。
もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むとき、聖霊はより自由に救いの働きをなさってくださいます。
食物を絶つことだけに捕らわれず、精神的なものを絶つ断食も心がけるなら、考えられない祝福にあずかることができます。ダイエット流行りの現代、食物を減らしてでもスリムを願うなら、クリスチャンたちはもっと断食の祈りを考えても良いのではとも思います。
「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか」(イザヤ58:6)
榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、エリムキリスト教会主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。