クリスチャン生活は、神の贅沢な恵みの連続です。イエス・キリストの十字架と復活を信じ、恵みによって救われた時から今にいたるまで、信仰もまた恵みにより与えられ、誇るものは何ひとつない救いを感謝します。
幸いなことに、イエス様の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受け続ける信仰を与えられているのです。
祈ることも、祈りに答えがあることも、聖霊に満たされることもすべてが恵みであり、ただありがとうございます、と心から感謝しつつ今日もまた天国の一日です!
わずか30秒の祈りが世界を変えると題して書き続けています。では祈りは30秒だけで良いのですか?と問われることがあります。そういう意味ではなく、どんな短い祈りや叫びであっても、愛なる神様に祈りが届くという意味です。主の祈りの精神をしっかりと受け止めて、全能の神に祈り求めたいものです。
イエス様とペテロとヨハネ、ヤコブが共に山に登り、イエス様の御姿が変わるというすばらしい変貌山の経験をした後、彼らが山を下りて来ると、そこには山を下りて来るイエス様たちを待ち構えていた、悪霊につかれた病める息子を持つ父親がいました。イエス様は不信仰を叱責し、その子を直してくださいました。
その後で、息子を直せなかった弟子たちはそっとイエスのもとに来て、「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか」と聞きました。
イエス様は、「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません」(マタイ17:20)と答えられました。
同時に、「ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません」(マタイ17:21)と言われました。
祈りは必ず聞かれますが、断食が必要なこともあるという健全な教えです。聖書にはモーセの40日40夜、ダニエルの21日間、ダビデの7日間、エステルの3日間、新約時代もイエス様の40日を筆頭に、パウロやバルナバなど神の聖徒たちが断食と祈りをしたことで、偉大な出来事が成されたと記録されています。
2千年のキリスト教会の歴史にも多くの断食の祝福が記録され、励まされ勇気と力が与えられてきました。
断食をしなければならないという、律法的に強制する断食は偽善になります。聖霊の恵みに導かれ食物を断ち、この世の一切のものから遠ざかり、全身全霊を込めて神と対峙し、御顔を仰ぎつつ求めることはすばらしいことです。
できれば断食するときは、世の雑事も離れて神の前にだけ静まる時を持つことです。聖書の言葉だけをいただき、聖霊に満たされながら内なる願いを求めるとき、いかなる不可能も可能になる確信を与えられ、「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)のみことばが文字どおり実現する恵みを体験するのです。
「朝食=Breakfast」はある意味では、毎日断食していることになります。長期断食ができないと悩むより、夕食後朝の起床時間まで、聖書と祈りで静まるときを持ち、できれば翌日一日中食を断ち、祈りに集中すればいかがでしょうか。
祈りの課題にもよりますが、次は3日間とチャレンジしてみることです。
ただし1週間以上の長期断食は、正しい断食の知識のある方に指導して導かれることが、霊的にも健康的にも大切です。断食祈祷院などもありますから、長期断食の場合は心して実行してくださるようにお願いします。祝福を祈ります。
榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、エリムキリスト教会主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。