天が裂けて、天の御国が近づいた時、どんな現象が起こり始めたのであろうか。
民衆はこの現象変化をすぐに察知した。彼らはみな驚いて、互いに語り合った。「これはどうだ。権威のある新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ」
人々はこんな出来事を一度も目にしたことはなかった。旧約聖書でも読んだことがなかった。未だ歴史の中で起こったことのない現象を身近に目撃した。イエスが悪霊をしかりつけた。「黙れ。この人から出てゆけ」。悪霊は大きな悲鳴をあげて出ていった。
当時ユダヤ人魔術師たちが悪霊追放を試みていた。意味不明な自分特有の呪文を長々と唱えて悪霊を追い出そうとしていたが効果はなかった。イエスは誰にでも理解できる一言で悪霊を追放した。一発で射止めた。圧倒的だった。迫力があった。パワーフルだった。しかりつけるイエスの権威ある声と、敗北を嘆いて大声をあげる悪霊の叫びは人々の耳に残った。
「これはどうだ」。ただ、驚く以外の反応はなかった。
天が裂けたのだ。天の御国が突入したのだ。天の御国が奪い取られているのだ。福音書は、悪霊追放事件を繰り返し記録している。「人々は悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れてきた」「イエスは多くの悪霊を追い出された」「こうして、イエスはガリラヤ地方にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された」
ある夜、イエスはガリラヤ湖対岸から、風に乗って湖水をすべるように届いた叫び声を耳にした。悲痛な叫び声であった。イエスでなくても、それが悪霊につかれた者の喉から発せられた声であることは明らかであった。
その男は大勢の悪霊レギオンにつかれ、裸のままで、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石の破片で自分のからだを傷つけていたのだ。人々はたびたび彼を足かせや鎖でつないだが、凶暴な力で鎖を引きちぎり、足かせも砕くありさまで、もはや誰にも何もできない状況にあった。それで、彼は小高い山にある墓場に住みついていたのだ。
悪霊が何をもたらすかは明らかだ。人を惨めな状況につき落とすのだ。家族や社会から切り離し、孤立させ、悲痛な叫び声をあげざるを得ないような耐えがたい苦しみを課し、自傷へと追い込むのだ。
イエスは弟子たちに「向こう岸に渡ろう」とうながした。この一人を悪霊から解放するために、イエスは向こう岸に渡った。「汚れた霊よ。この人から出て行け」と言われた。その声は力強く、ガリラヤ湖対岸までも鳴り響いたことだろう。
一瞬のうちに、この男は正気に返った。人々は何事が起ったのかと集まったが、衣を身に付け、静かに座っていたあの男を見たとき、恐ろしくなった。
イエスが舟に乗ろうとされると、お供をしたいと願ったが、イエスは「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」と言った。イエスは悪霊から解放し、正気になった彼を、彼の家族と社会にかえされたのだ。
イエスは知っていた。悪霊を追放した力は自分本来のものではないことを。自分の力で悪霊を追放したのではない。だから、「主があなたにどんな大きなことをしてくださったか」「主がどんなにあわれんでくださったか」と言ったのだ。
それでは何の力によって悪霊を追放したのか。答えは明らかだ。主がなさったのだ。だから、こう言ったのだ。「わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているなら、もう神の国はあなた方のところに来た」。バプテスマを受けた時、「天が裂けて、御霊がイエスの上に下った」「御霊はイエスを荒野に追いやられた」。サタンの誘惑をしりぞけたイエスは「御霊の力を帯びてガリラヤへ帰られた」。ナザレの会堂に入られると、イザヤ書の箇所を宣言するように朗読した。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が貧しい人々へと、わたしに油を注がれた」
イエスは聖霊の力によって悪霊を追い出していた。イエスは人であった。もちろん、ユニークな人であった。罪がなかったし、罪を犯さなかった。完全に主なる神に従った。それらの点では違っていた。しかし、彼は人であった。自分の力では悪霊を追い出せなかった。あくまでも、聖霊の力に頼って悪霊と対決したのだ。
だから、イエスはひとり寂しい所に行って祈った。朝早く、時には夜を徹して祈った。なぜか。主な理由は聖霊の力に満たされるためであった。イエスが長時間祈った後で、悪霊追放の記載があるのは決して偶然ではない。弟子たちは自分たちでは追い出せなかった強い霊をイエスが追い出した時、どのようにしたら追い出せるのかと尋ねた。イエスは「わたしとお前たちは本質的に違うのだ」と言わず、「この種のものは祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではない」(マルコ9:29)と答えた。イエスは祈りによって聖霊の力を受けたのだ。(続く)
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平野耕一(ひらの・こういち):1944年、東京に生まれる。東京聖書学院、デューク大学院卒業。17年間アメリカの教会で牧師を務めた後、1989年帰国。現在、東京ホライズンチャペル牧師。著書『ヤベツの祈り』他多数。