イザヤ書6章は、イザヤが預言者としての召命を受けたことが記されています。それは彼が活躍した南王国ユダにとって危急存亡の命運がかかっている時でした。ウジヤ王は有能で北王国イスラエルの支配権を退け、エルサレムを中心とするユダ王国の統治権を完全に回復させました。強力な軍隊を組織し、多くの戦いで成果を収めました。
また、住民の生活にも力を注ぎ、至るところに井戸を掘り、農業を盛んにし国民的支持を得ました。
しかし、残念ながら、その晩年には心高ぶり、神は彼を退けてしまわれたのでした(2歴代誌26:16〜19)。
ウジヤが高ぶった思いをいだいて、神の定めを犯すものとなったように、ユダの民らも不信仰で不道徳な生活をするようになってしまいました。ユダの宮廷に出入りすることを許されていた預言者イザヤはウジヤ王の死を境に主の召命を再確認し、その召しに応えて立ち上がるのです。
イザヤ書6章は、イザヤが主の聖なる御臨在の前に立たされた場面です。「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た」(イザヤ6:1)とあります。誠に厳粛な場面です。
「主を見た」とありますが、聖書の他の箇所には、神御自身を見ることはできない(出エジプト33:20、1テモテ6:16)とありますのでこれは、強烈な神の御臨在にふれたことを言い表しているのでしょう。
ところで2節を見ると、主の御前にあって仕える御使いの姿が描かれています。「セラフィムがその上に立っていた・・・」。セラフィムとは「燃える」という意味があって、神に仕える姿を最もよく言い表しています。御使いは燃える心で神に仕えているのです。私どもも神に仕える者となりたいなら、心を燃やす者でなくてはなりません。
エレミヤは「・・・あなたがたの悪い行ないのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう」(エレミヤ4:4)と申しました。バプテスマのヨハネのことも「彼は燃えて輝くともしびであり」(ヨハネ5:35)と言われています。パウロも「だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか」(口語訳、2コリント11:29)と申しました。
ですから私どもも火のように燃えていたいのです。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」(ローマ12:11)とあり、「あなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」(2テモテ1:6)とも言われているのです。心がなまぬるくなったクリスチャンではなく、あらゆる不純物を焼き尽くし、寒さにこごえている人の魂を温め、愛の炎で燃やす者になりたいのです。
次に、このセラフィムには6つの翼があった、と書いてあります。その翼は飛ぶためだけのものではありませんでした。私どもにもし6つもの翼があったら全部飛ぶために使ってしまうかも知れません。
しかし、ここには「二つをもって顔をおおい、二つをもって両足をおおい、二つをもって飛んでおり」とあります。第一は敬虔さを、第二は謙卑を、第三は神の命令に従って仕えることを表すと言われています。「私どもは果たして人生の三分の二を神への敬虔な礼拝と交わりに用い、三分の一をもって活動すると言うほどの者だろうか。むしろ、三分の二を、いや、あるいは全部を活動に使っていはしないか」(FBマイヤーきょうの力より)と問われます。
イザヤは主の臨在に触れました。御使いの歌う荘厳な賛美のうちに高くあげられた王座に座しておられる主の栄光を見たイザヤは、恐れつつも大いなる祝福に浴しているのです。一国の王の前に招かれただけでも生涯の光栄であり、その子孫にまで長く伝えたいところでありますのに、万軍の主でいますお方の前に出ることが許されるとは何と素晴らしい事ではありませんか。しかし、イザヤはそれを手放しで喜んだり誇ったりすることはできませんでした。彼は恐れおののき、かつ絶望せざるを得なかったのです。「ああ、私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから・・・」(イザヤ6:5)と申しています。
不信と不義に満ちた世を見て怒りに打ちふるえていたかも知れません。彼らを救わねばという思いに燃えていたかも知れません。しかし、神は彼を宣教者としてお立てになる前に、彼自身を聖なる御前に立たせて神との関係を正しくしておく必要があったのです。そこでイザヤが知らされたことは、「自分は神の側に立って民を叱責し、教え、語るというような立場にはない」「自分こそが神の裁きを受けて滅ぶべき存在でしかない」という事実でありました。
「ああ、私はもうだめだ」は、単なる絶望に似た感情を表すものではなく、「私はだめだ、滅んでいる」と訳した方が原文に近いと註解者は申します。カルヴァンは「自分だけが正しいと思っている者は神の前で最も傲慢な罪人であることを暴露している」と申しました。イザヤも、自分は正しい、彼らのような者ではない、と思っていたかも知れません。しかし、聖なる主の御臨在に触れたとき、「ああ、私はもうだめだ」という砕かれて悔いくずおれた告白となったのではないでしょうか。
しかし、この瞬間は、神が待ち望まれた時であり、このようなところを通させることなくしては、神の聖なる器として用いられることはできません。自らに絶望することは死ぬことであり、神はそのように死んだ人を新しく生かし、御自分のものとして用いられるのです。
イザヤが聖なる主の臨在の前にあって悔いくずおれていた時、主の御使いであるセラフィムの一人が、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭火を持って現れました。そして一瞬、その炭火がイザヤのくちびるに触れたのです。その時、御使いは申しました。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた」(イザヤ6:7)と。
祭壇とは、罪の贖いをする場所です。その祭壇では罪を贖うための子羊がほふられます。動物の血が流され、焼かれて罪人のために身代わりとして献げられるのです。主なる神は、イザヤのような生真面目な人物であっても、主の祭壇における贖いなくしては神の前には立ち得ないことを知らねばならなかったのです。そして、この贖いの恵みこそはいっさいの罪を完全に赦し潔めるものであることを保証していたのでした。そして、この贖いの恵みは、時至って、イエス・キリストがゴルゴダの丘の十字架の祭壇の上に尊い血を流して死んで下さるその栄光を指し示すものでありました。
イザヤが「あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた」との御言葉を聞いた時、どのような気持ちになったか。申すまでもなく、それこそ、えも言えぬ大きく深い平安と喜びに満たされたに違いありません。そして、私たちにはイザヤが預言した通り、真の贖い主イエス・キリストを知り信じた者として、イザヤと同じ、否、それ以上の恵みの中に生かされているのです。
さて、御使いは、イザヤに語りかけて言います。私は「だれを遣わそう。だれが、我々のために行くだろう」(イザヤ6:8)と。
主はイザヤに「私はお前を人々の中に遣わす。行け」とは言われませんでした。命じられて行くことも尊いことですが、自発的に困難なところへ進んで出て行くことはもっと尊いことです。主は、そのような人を求められるのです。
イザヤは、その呼びかけに応えました。「ここに、私がおります。私を遣わしてください」(イザヤ6:8)とあります。実にイザヤは二つ返事で立ち上がったのです。彼の態度と行動には躊躇がありません。ぐずぐずしていてはいけないのです。ガリラヤ湖の漁師たちも主イエスの「これから後、あなたは人間をとるようになる」とのお言葉に「何もかも捨てて、イエスに従った」(ルカ5:10〜11)と記されています。
キリスト者は、この世にあってこの世のものではありません。私たちはキリストの十字架によって贖われたものであり、キリストのものとなりました。私たちは、この世にあってこの世に遣わされた者という形で生きています。イエス様は「わたしも彼らを世に遣わしました」(ヨハネ17:18)と言われました。政府が外国へ大使を派遣するように、主は私どもをこの世へ派遣しておられます。大使は本国の考え、方針を正しく相手国に伝達しなくてはなりません。私どもも神の言葉、福音の恵みを正しくこの世の人々に伝達する責任を負っています。イザヤが「私を遣わしてください」と申し出て自分の身と魂とを主に明け渡したように、信仰の決断をもって従いたいものです。
藤後朝夫(とうご・あさお):日本同盟基督教団無任所教師。著書に「短歌で綴る聖地の旅」(オリーブ社、1988年)、「落ち穂拾いの女(ルツ講解説教)」(オリーブ社、1990年)、「歌集 美野里」(秦東印刷、1996年)、「隣人」(秦東印刷、2001年)、「豊かな人生の旅路」(秦東印刷、2005年)など。