人はだれでも危険や苦しみに出会った時、自然に「神様!」と手を合わせるようです。苦しい時の神頼みとも言えるでしょう。しかし、そのとき本当に聞いてくださる真の神を持っているかいないかで大きな違いが起こります。
人間は神にいのちを与えられているので、どんな時でも神の栄光を表すために生かされています。
イエス・キリストは、失望しないで祈りなさいと教えました。苦しい時の神頼みではなく、いつでも、どこでも絶えず祈り続けることを勧めています。祈りが呼吸に例えられる所以です。呼吸が止まれば人は死ぬように、祈りが止まれば信仰はストップします。
現在世界で起こっている地震(特にハイチ大震災)のためにも、わずか30秒でも日本(世界)中のクリスチャンが祈ることが、世界に大きな変化を起こすことができるのです。
最高の祈りは、何も心配や思い煩ったりしないで、どんなことにもどんなときにも心から「ありがとうございます」「感謝します」との気持ちでお願いすることです。心がこもらないままでクドクド祈るのは、今日を限りに止めにしたいものです。
祈りをすることは神のご命令です。また、私たちが誘惑に負けないで、勝利に輝く天国の毎日をすごすためにも、祈りが必要です。絶えず祈り続けるためには、自らの決意や持続力と同時に、聖霊によって祈ることが秘訣です。
聖霊は神のみこころの深みまでもご存知です。聖霊によって祈る時、心は深い平安に満たされ、絶え間なく注がれる神の愛を豊かに受け、願ったもの以上の霊的祝福を受け、祈りの座から立ち上がったときは、新しく力を受けて、走っても疲れず、歩いても弱らず、わしのように飛翔することができるのです。
祈っているときクリスチャンは幸福です。天の父と語らう幸いは何にも勝る祝福の時です。神の子ですから、そこには自由があり、喜び平安感謝があふれます。涙するときも、その涙を真珠の輝きに変えてくださる愛と慰めの御手がいつも支えてくださるから、涙を拭って立ち上がることができます。
結婚後12年目に長男が生まれました。父になって初めて、聖書の父なる神の心が実際的にも少し分かるようになりました。ことばをしゃべれなくても、子どもは父の膝に近づいてきます。バブバブ・・・・その時の嬉しさは言葉では表現できないほどです。私たちも神の喜びの御顔の前にいつも出ることができるから、恐れないで「アバ、父!」と御顔を仰ぎたいものです。
もう少し大きくなると、片言のことばで語りかけてきます。そして自分がしてもらいたいことや必要なものを求めるようになります。危険なものやそのときに不必要なものは、説明して納得させて与えないようにもします。
そのときは絶対とおもったのに、時間が経つと不要だったものも結構多く、結果的に祈りが答えられたことに気づき感謝する場合もあります。
最近は2歳の孫が遊びに来ると、書斎部屋に黙って入ってきて、側で遊んでいるときがあります。声を掛けると自分がして欲しいことを求め、願いが聞かれると顔をキラキラ輝かせながら喜びいっぱいです。
クリスチャンは時代がどのようであれ、敗惨の生活や喜びのない窮乏の生活に打ちのめされたまま過ごすことはありません。祈っている限り、神との関係が正常でさえあれば大丈夫です。祈れないとつぶやく前に、わずか30秒でも祈るとき、そのスタートが甘美な神との交わりになり、気がついたら時間の立つのも忘れて神と語らい祈り、世界が変えられていたこともあります。
「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」(ヨハネの福音書16:24)
榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、エリムキリスト教会主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。