「幸いなことよ。そのそむきを、赦され、罪をおおわれた人は。」(詩篇32篇1節)
詩篇を毎朝5篇ずつ通読して久しくなる。ビリー・グラハムが毎朝詩篇を5篇ずつ読み1カ月で読み終わることを知って、私も続けている。
詩篇32篇に至ると、罪赦された感謝がわいて来る。若き日に名古屋教会に導かれ、12名の方々と木曽川で受洗したことを昨日のように思い出す。
神の前に一人、自分の罪を隠さず知らせ悔い改めると共に、迷惑をかけた人々におわびの手紙を何通も出し、罪の整理に導かれた。中学校の図書室にだまって本を借りて来てしまったことをおわびした。父の願いを受け入れないため父を苦しませたこと、知的障害の兄を愛せなかったことを悔い改めた。母にも友人にも、田舎の近所の方々にも手紙を書いた。心に知れる責められる罪が何もなくなった朝のことであった。
詩篇32篇1節の聖句が心の中にひびいて来た。神から罪赦されたという約束のお言葉をはじめていただいた。
私は、主イエス・キリストの十字架の身代わりによって罪赦された確信が与えられた。
罪の赦しは、最大の祝福であると言われる。ダビデは、罪赦された幸いを詩篇32篇に歌っている。ダビデは他にも幸福は、たくさんあったはずであるが、そむきが赦され、罪をおおわれた人は幸いであるとのべている。
あんなに好きだった酒からも救われ、人の失敗や欠点を赦すことより、責めることの方が多い者であったが、主にあって赦し、包むことができるようにされた。兄を愛する者とされた。
不信仰な私であったが、主に信頼する者と変えられた。詩篇32篇10節の聖句のように、かつては、心の痛みが多かったが、主に信頼する者となり、神の恵みに取り囲まれるようになった。
主が私の隠れ場(7節)となって下さり、どんな時にも祈る者の一人とされた。主にあって喜び楽しむ生涯となり、心に太陽を、唇に歌をの日々と変わった。聖書を通読し、霊にいつわりのない幸いな日々を送り続けたい。
工藤公敏(くどう・きみとし):1937年、長野県大町市平野口に生まれる。キリスト兄弟団聖書学院、ルサー・ライス大学院日本校卒業。キリスト兄弟団聖書学院元院長。現在、キリスト兄弟団目黒教会牧師、再臨待望同志会会長、目黒区保護司。