昔、ある牧師から興味ある伝道説教を聞いたことがあります。二つあって一つは「いが栗人生」、もう一つは「柿の実人生」というのです。「いが栗人生」というのは、あの栗の実というのはかたい皮でおおわれ、その上に鋭いとげが一杯あって、まるで鎧を着た武士のようだというわけです。しかし、皮をむいてみると、何のことはない、中身は害虫に食い荒らされて見掛け倒しということがあるのです。
私どもの人生も、外見をよく装っていても虫食人生であったとしたら・・・というわけです。また、「柿の実人生」というのは、柿の木というのは最初たくさんの花を咲かせるのですが、実にならないうちにポトポトポトと落ちて行ってしまう。そして、ようやく実になりかけてもまた落ちて行き、最後まで残るのは極めて少ない。私たちの人生がその様であるとしたら・・・というのです。
イザヤは、イスラエルの民らのことを「ぶどうの木」にたとえました。ぶどうの木の存在理由は、実を結ぶことにあります。イエスさまはヨハネ福音書15章で、実を結ばないぶどうの木は焼き捨てるしかないと言われました。
イザヤの言うぶどうの木は持ち主に実がたくさん結ぶのを期待されたのですが、その期待を裏切り「腐れぶどうができてしまった」というのです。イザヤはその事を「待ち望んだのに・・・」という言葉を繰り返すことによって神の御期待がいかに大きかったか、それを裏切られたことの無念さを印象づけようとしています。「なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに腐れぶどうができたのか・・・」(イザヤ5:4)、「主は公正を待ち望まれたのに見よ、流血・・・」(同:7)、「正義を待ち望まれたのに見よ、泣き叫び・・・」(同)とあります。
何年か前「期待される人間像」という言葉が盛んに使われました。期待されているということは幸いな事です。「見込まれる」という言葉もありますが、上司の期待に応えて大きく成功する道を開く人があるかと思うと、期待に反して奈落の底に転落してしまう人もあります。
私どもキリスト者は、霊的なイスラエルとして期待されているのです。「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだのです。それは、あなた方が行って実を結び、その実がいつまでも残るためである」(口語訳、ヨハネ15:16)とある通りです。また「キリストの日に備えて純真で責められるところのない者となり、イエス・キリストの義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように」(口語訳、ピリピ1:11)とあります。
ところが、イスラエルは神の御期待を裏切り、実を結ぶことが出来ませんでした。そして、ただ期待にそわなかっただけで事が終わらなかったのです。逆に、御意(みこころ)に反する実だけが豊かに結ばれるという皮肉な有様でありました。「ああ、家に家を連ね、畑に畑を寄せている者たち、あなた方は余地を残さず自分たちだけが国の中に住もうとしている」(イザヤ5:8)とある通りです。
自己中心主義の蔓が畑一杯にのびて地をふさいでいるのです。これは、神を知らなかった人たちのことではありません。神の救いをいただいてエジプトから出て来たイスラエルの民の姿であったのです。
そして、私どもキリスト者もキリストの十字架と復活の恵みによって救われたのですが、その心の中に自己中心的な雑草の根が残っていて、注意深い信仰生活をしていませんと主の御期待を裏切ってしまうかも知れないのです。
パウロは、ピリピ人に送った手紙の中で「誰もみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていません」(ピリピ2:21)と書かねばなりませんでした。これは名誉なことではありません。否、むしろこのような信仰者の集団でしかないとしたら、不名誉どころかこれほど大きな恥さらしはありません。
使徒パウロは、小アジアからヨーロッパにかけて広い範囲で宣教活動を展開し、多くの教会が誕生しました。しかし、それらの教会が問題なく成長し、豊かな良い実を結んだかと言うと、憂いと涙をもって祈らねばならない状態であったのです。先の言葉を繰り返すと、「誰もみな自分自身のことを求めるだけで・・・」と書かざるを得ないところがあったのです。
「教会も弱い人間の集まりだから」とか「所詮は罪人なのではないか」といった具合にして馴れ合い集団になってしまうなら「福音を恥としない」(ローマ1:16)という立派な標語を高く掲げたとしても、かえって「福音の恥になっているのではないか」というそしりを免れません。
例えば、教会の中には何と人との共感性に乏しいと感ぜざるを得ない場面に出会うことはありはしないか。人に待たされると怒るくせに、自分は人を待たせても平気でいられる人がいたりします。また、時には自分の意見だけを強引に通そうとしたり、通らないと良いものまでも放り出す信仰的に未成熟な人もいたりします。
しかし、今ご紹介する教会は、神の御期待に大いに応えることの出来たマケドニヤ地方にあった教会の群でした。「さて、兄弟たち、私たちはマケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みをあなた方に知らせようと思います。苦しみ故の激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私は証しします。彼らは自ら進んで力に応じ、いや力以上に献げ、聖徒たちを支える交わりの恵みにあずかりたいと熱心に私たちに願い出たのです。そして私たちの期待以上に神のみこころに従ってまず、自分自身を主に献げ、また、私たちにも委ねてくれました」(2コリント8:1〜5)とあります。
ここには「期待以上に」と言われています。期待以下、期待を裏切るということがあり、期待程度ということもあります。しかし、マケドニヤの諸教会は期待を遥かに超えるものがあったのです。そこには、キリスト者生命を燃焼し切った爽やかな教会の姿が浮かんで来ます。
どうしたらそのような期待以上の力が湧いてくるのでしょうか。
それは、まず第一に、苦しい試練に信仰によって打ち勝つところから始まるのではないでしょうか。マケドニヤのクリスチャンたちは苦しみを通して鍛えられ、互いに励まし助け合い目標を目指して戦ったのです。
第二は、恵みにあずかりたいというひたむきな願望です。これは不純な願望ではなく、むしろこの願望こそが純粋性を表しています。イエスさまも「自分の前に置かれている喜びの故に、恥をもいとわないで十字架を忍ばれた・・・」(口語訳、ヘブル12:2)と言われています。
第三の点は献身です。「自分自身を主に献げ・・・」とある通りです。肉の力の熱心から来るのとは、根本的にその性質を異にしている動機と目的があるのです。樋田牧師はよく「やむにやまれぬ動機があるか」と問い掛けられました。神と人とを愛してやまない思いにまで高められることです。
パウロがピレモンに書き送った手紙の中の一節に「あなたは確かに、私が言う以上のことをしてくれるだろう」(ピレモン1:21)と申しています。
ピレモンはパウロから信頼され期待されていたのです。打てば響く人であったのでしょう。何の反応も示さない木偶の坊であったとしたら、こんな依頼はしなかったでしょう。私どもも木偶の坊のような、役に立たない人、気転のきかない人にはなりたくありません。神の御期待に応えて立ち上がりたいものであります。
藤後朝夫(とうご・あさお):日本同盟基督教団無任所教師。著書に「短歌で綴る聖地の旅」(オリーブ社、1988年)、「落ち穂拾いの女(ルツ講解説教)」(オリーブ社、1990年)、「歌集 美野里」(秦東印刷、1996年)、「隣人」(秦東印刷、2001年)、「豊かな人生の旅路」(秦東印刷、2005年)など。