イスラエルの民は、神の恵みによってエジプトの奴隷生活から開放され、力ある独立国家として繁栄するに至りました。しかし、彼らは、その神の恵みを忘れ、国を滅ぼす方向へと転落していきました。
天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。
「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。
牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。
それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」(イザヤ1:2〜3)
イザヤはここで「牛やろばでさえ、飼い主の顔を覚えている」と言うことによって、彼らがいかに神の恵みをうとんじ、ないがしろにしてきたかを示します。
明治天皇の歌に「乗る人の心を早く知る駒は、ものいうよりもあわれなりけり」とあります。もの言わぬ馬でさえ、人間以上に乗る人の心を知っている、何といとおしいことよ、という意味です。動物でさえ飼主を忘れることがないのに、人間はその造り主を忘れてしまうのです。何と身勝手な生きものではありませんか。
また、イザヤはイスラエルの民らの姿を病みわずらう憐れな人物にもたとえています(イザヤ1:4〜7)。頭と心臓といえば生命をつかさどる最も重要な器官です。頭は外にあらわれた器官であり、心臓は体の内側にある器官です。そのようにイスラエルは隠れた部分においても、外に現われた部分においても見るに耐えない腐れ果てた姿になっていました。
エレミヤの言葉によると、「身分の低い者から高い者までみな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまでみな偽りを行っている。彼らは私の民の娘の傷を手軽にいやし、平安がないのに平安だ平安だ、と言っている」とあります(エレミヤ8:10〜11)。
イスラエルの多くの預言者や祭司らは彼らの前で当たりさわりのない言葉を語ることによってその場をつくろっていたのです。これは偽医者のようなもので、イスラエルの民らの生活は手のほどこしようもない状態であったのです。頭や心臓の血管に不純物が入ると死に至る病になる危険があります。それと同じように、私どもの魂のうちには純粋な神の御言葉と御霊の血液が流れていないなら霊的な死に至る危険があります。
私の経験から申しますと、求道生活の時期とか、洗礼を受けた頃というのは、聖書のお言葉がよく心の中に入ってきて感動的で実に力強い信仰生活に励み、他の友達を教会の集まりに誘うことができるのですが、いつの間にか、その勢いが衰え信仰生活がマンネリ化してしまうことがあるのです。これを、そのままにしておきますと取りかえしのつかない状態になり、脱落していってしまう危険があるのです。くれぐれも霊性の健康管理を怠ることのないように注意したいものです。
信仰生活が成長せず、実を結ばないまま朽ち果ててしまう原因はどこにあるのでしょうか。礼拝の説教を聞いていて眠くなって満たされないまま席を立つことがあります。その原因は語る側にある場合と聞く側にある場合とがあるでしょう。説教には「生かす説教と殺す説教」があると言われています。人を生かすことができず、むしろ死に至らせるような説教をしているなら、その説教者は病みわずらう人であって自分の霊的病いを聞く相手に感染させてしまい、ともに死んでしまう危険があります。しかし、聞く人が霊的に生きている場合があり、聞く態度によっては説教者を生かすことも有り得るということです。つまり、説教者の経験が浅く、しどろもどろに話していても祈りをもって敬虔な心で聞くなら、そこに聖霊の助けと導きがのぞみ、大きな祝福をもたらすものだということです。
しかし、どれほどすばらしいメッセージが語られても、聞く側に渇きがなく受け入れる態度がないなら、それは、馬の耳に念仏ということになってしまいます。イエスさまは「聞く耳のある者は聞くが良い」と言われました。聞く耳を持つことが大切です。聞く耳を持たないなら、神がいかに親しく語りかけておられても、それは、心地よい眠りを誘うすずの音にしか聞き取れず、やがて、イスラエルのように「忘恩の民」となってしまいます。
では、どうしたら神の恵みを忘れない、生きた信仰者として立つことができるのでしょうか。イザヤはここに、3つの大切なことを示しています。
その第一は、神のあわれみに目を留めることです。「もし万軍の主が少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた」(イザヤ1:9)とあります。昔、ソドムとゴモラの町は、神のさばきを受けて滅びてしまいました。イザヤは、そのことを思い起こして「今、かくあるは、神の憐みによる」ということを覚えずにはおられなかったのです。エレミヤも同じく「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主の憐みは尽きないからだ」「我らの尚滅びざるはエホバのいつくしみにより、そのあわれみの尽きざるによる」(哀3:22)と申しました。パウロも「神の恵みによって今日あるを得ている」(コリント(I)15:10)と申しました。
この事実に目を留めないなら、それは神の恵みのすべてを踏みにじり、神に対する忘恩者のそしりを受ける者となるのです。
第二は、悪を退け、きよく生きることです。「洗え身をきよめよ。わたしの前であなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために、正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ」(イザヤ1:16〜17)
神は不潔な生活を忌み嫌われます。神は愛ではないかと言って甘えていることはできません。神は寛容な方であって赦してくださいます。しかし、平気で罪を犯し続け悔い改めようとしない者を恵もうとはなさいません。恵まれて生き生きとした新鮮な信仰生活は、悪を除き、善をなすことを心がけ、清潔な生活をすることの中から生まれてきます。
第三の点は、神の約束の言葉を受け入れることです。「さあ来たれ、論じ合おう、と主は仰せられる。たとえ、あなた方の罪が緋のように赤くても雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても羊の毛のようになる」(イザヤ1:18)
何と寛大な呼びかけではありませんか。たとえようもないほどの罪を持っていたとしても、じっくり罪の告白を聞いてくださるのです。「論じ合おう」とは、話し合いの場に出ることです。神と人間、それは比較できるような間柄ではありません。一方は造り主、一方は造られた者に過ぎません。一方は絶対的な聖さを持つ方、一方は罪に汚れ果ててしまった者でしかありません。それなのに神は、私ども人間の目線で話し合おう、と言われるのです。私どもはどうして神と話し合いができるのでしょうか。人間は神の立場に対等で立つことは絶対にできないのです。しかし、神は人間の立場にまで降りて人間と同じ立場に立ってくださるのです。キリストを見ればその事実を知ることができます。
イエスさまは、人となってこの世に来られ、人間の立場に立って神と私どもとの間の仲立ちとなられました。イエスさまは私どもの罪の贖いとして十字架の上に死んでくださったのです。イエス・キリストの十字架を信じて赦されない罪は一つもありません。全部赦され潔められ、神の子とされ、永遠の祝福をさえ受けるのです。
このお話の題は「忘恩の民」でした。神の恵み御恩寵をすっかり忘れ去ってしまった愚かな人間という意味です。しかし、そんな忘れっぽい人間のために悔い改めてイエスさまを救い主として受け入れるなら、神は、私どもの一切の罪を消し去り、忘れてくださり思い出すことはない、と言われるのです。
藤後朝夫(とうご・あさお):日本同盟基督教団無任所教師。著書に「短歌で綴る聖地の旅」(オリーブ社、1988年)、「落ち穂拾いの女(ルツ講解説教)」(オリーブ社、1990年)、「歌集 美野里」(秦東印刷、1996年)、「隣人」(秦東印刷、2001年)、「豊かな人生の旅路」(秦東印刷、2005年)など。