私は藤田正行君に誘われ、名古屋教会に行きました。会社を希望退職し、茨城県東茨城郡美野里町羽鳥にある聖書学院に入学を許されました。その時、提出しました「救いから献身召命までのあかし」を次に記します。
1957年(昭和32年)2月に寮の友達に導かれて教会に行くようになりました。この1年前に信州より名古屋へ大きな希望をいだいて就職してきました。1年間というもの、学校から開放され自由になったとの考えのためか、自分の思うままの生活をしていました。教会でお話を聞いているうちに、私は真剣に信仰したいと思うようになり、はじめは青年会や伝道会に導かれていましたが、祈祷会、家庭集会、礼拝とかかさず集会に出席するようになりました。
会社から帰ってきて、友達の部屋に行っては、人のうわさやくだらない話をしていた私でしたが、教会に行くのが楽しみになりました。お話を聞き、聖書を読み、集会中のお祈りを聞いているうちに罪より救われなくてはならないことを知らされました。神様から離れた生活が罪であることを知り、心より主にすがっていこうと決心しました。
5月に洗礼を受けるようすすめられ、4月の終わりに先生の前で神を信じ、罪の悔い改めをしました。しかし、私の信仰がなかったためか、10月の下旬になるまで救われた、という確信がいただけなかったのです。10月の下旬までの5カ月間、私は聖書の光に示されるままに、今まで神様から離れた結果、犯した罪の整理を始めました。お祈りしては、人に迷惑をかけたことは手紙などでお詫びしました。無断で失敬していたものは返すよう責められ、一つ一つ整理していきました。中学のとき、書物を図書室より持ち出したこと、小学校のとき、リンゴを盗んだこと、私にとっては苦しいことでしたが、主が十字架を示してくださり、悔い改めることができました。
この地上で恥をかくか、再臨の主の前で恥をかくかを思うとき、どんな小さなことも示されるままに悔い改めました。
兄が病弱であり、家の中も争いごとの多かった中に育った私は、家で働くのがいやなため、後継の問題もかまわず県外に就職しました。父の意見を無視して就職したため、父を自殺に追いやったこと、自分の名誉のためなら友達も兄弟もどうでもよいという考えや行動、兄を憎み、愛することのできなかったこと、多くの人たちにしてきた偽り、親不孝、悪しき思い、あらゆる面を悔い改めました。そして、もうこれ以上犯した罪はないと思われるところまできました。先生の前に再び悔い改め、「再び罪を犯すな」と祈っていただきました。
1957年(昭和32年)10月29日の朝です。床より目をさましましたときに、いつまでたっても忘れることのできぬ聖言を与えられました。
「そのとがをゆるされ、その罪をおおわれし者は幸福なり」(詩篇32篇1節)
「主は我らのために生命を捨てたまえり」(ヨハネ第1、3章16節)
イエス様が私の罪のために生命を捨て、十字架についてくださったことが自分のものとなり、いままでに味わったことのない、心に平安を与えられました。
(1960年 昭和35年1月)
工藤公敏(くどう・きみとし):1937年、長野県大町市平野口に生まれる。キリスト兄弟団聖書学院、ルサー・ライス大学院日本校卒業。キリスト兄弟団聖書学院元院長。現在、キリスト兄弟団目黒教会牧師、再臨待望同志会会長、目黒区保護司。