小学校2年の8月15日に、第2次世界大戦が終わりました。戦争中は分教場の裏山に、防空頭巾を被って避難訓練をしました。松林の中に小川が音をたてて流れていました。食べものが不足していたので分教場の庭に芋をつくったり、カボチャを植えました。着る物も、はく物も傘も、オーバーもなく、冬は毛布をオーバー代わりにしました。いつも都会の人は食べ物がもっと不足していることを先生に教えてもらいました。木の芽や、木の葉を摘んで、乾燥させ袋につめて学校に持っていきました。都会の方が粉にして食べる一部になるというので山や野原で夢中になって集めました。
私は、戦争の終わりを告げた天皇陛下の放送を友達の家の庭で聞きました。ざら紙のような教科書を開いて小林八重子先生のいう箇所に墨を塗りました。
小学校四年から片道4キロ歩いて、木崎湖の近くの平小学校に通いました。途中に大原という集落があり、年上の子どもたちがお宮に隠れて石を投げてくるのには怖さを覚えました。父親がワラで編んでくれた、ぞうりやごんぞをはいて熊が出るような山道を学校に通いました。現在の健康の基礎は小学校の通学にあったように思われます。雪道の通学は大変だったことを思い出します。
中学・高校生時代(大町市に合併して)
中学1年の時に、平村と大町その他の村が合併して、3万都市大町市になりました。私は大町中学に移ることになりました。田舎の学校から、町の学校に行くようになり戸惑うことが多くありました。歩いて2キロくらいでしたので小学校よりずっと通学は楽でした。
運動部は登山部に入り、登山部長をするようになり部員と白馬に登りました。この学校に移ったおかげで、松本工業高校に入ることができました。大町駅から、松本までは40キロ、電車で1時間かかりました。6時30分のNHKのラジオ体操とともに家を出ます。大町駅まで歩き電車に乗ります。松本駅下車、そこから3キロほど学校まで歩きました。左官業の父が学資、交通費を出してくださったことに、今になって感謝がわいてきます。高校3年生になって、生徒会長に選ばれました。マラソン大会を企画したり、夏の上高地に50人用の天幕をはりキャンプをし、穂高に登山をしました。歩きながら単語を覚えたり、電車の中は勉強の場所になりました。高校時代は柔道部に入りました。夏の合宿はお寺で、座禅を組み、般若心経のお経を覚えさせられました。2年生の夏、初段の試験に挑戦しました。相手の高校生が背が低かったので、自信を持っていましたが、油断をして、しよい投げで負けました。2人目も同じでした。3人目は首を絞めて、絞めで勝ちましたが、黒帯は取れませんでした。3年の夏、全国の100名ほどの高校生の中に選ばれて、読売新聞主催、小豆島の学生キャンプに参加しました。キャンプファイアーを数名で囲んで、大学生のリーダーの司会で、男女交際について話し合いをしましたのが良い思い出になりました。帰ってからペンフレンドを求めて、文通を始めました。あれから小豆島を訪ねていませんが、地上の旅を終わる前に、訪ねてみたい場所です。
高校3年の9月には名古屋に行き、就職試験、面接試験を受けました。9月に高校では早い方で新三菱重工KKに就職が内定しました。両親も、友達も、担任の先生も、親戚の本家のおじさんも喜んでくれました。卒業式には長野県の教育委員会から表彰状をいただきました。
工藤公敏(くどう・きみとし):1937年、長野県大町市平野口に生まれる。キリスト兄弟団聖書学院、ルサー・ライス大学院日本校卒業。キリスト兄弟団聖書学院元院長。現在、キリスト兄弟団目黒教会牧師、再臨待望同志会会長、目黒区保護司。