祈らないでも偶然に良いことに出会うこともあるのが人生です。日本人は「宗教は何ですか」と聞かれたら、「何も信じていません」と答える人が多いようです。しかし、文化庁統計の宗教人口は2億人を越え、日本人がいかに宗教心に富んでいるかをうかがわせます。
「何者のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」の心境であり、苦しい時の神頼みの人々が多いのでしょう。
宗教を次の3つのもの、水と空気と火に例えると、何がもっともふさわしいでしょうか。
聖書学院で神学生たちに聞いてみると、すぐに空気という答えが返ってきました。理由は、空気がなければすぐ死んでしまうから。もう一つは、水でした。確かに、空気も水も大切ですが、宗教は火に例えるというのが正解です。生きとし生けるものすべてに空気と水は必要ですが、火を使うのは人間だけであり、火を使えるから人間だと言っても過言ではないからです。
日本人が西欧の人々と交渉に臨むとき、「宗教は何ももっていません」と応対すれば人間とはみなされず、エコノミック・アニマルと呼ばれたことは承知のことです。
イエス・キリストの十字架は、神の燃えるような愛の表現であり、その愛をアーメンと信じて受け入れた瞬間から、人間の真の姿=神の子となり、神との対話が可能になります。十字架上に死に、3日目に復活したイエス・キリストのお名前によって祈る特権を与えられました。
わずか30秒の祈りが世界を変えるとお話ししてきましたが、主の祈りを30秒で祈れるだけでなく、「主よ。助けてください」との叫びも祈りであり、瞬間の求めにも答えがあり、祈らない先に願いがかなうことさえも多くあります。
それはちょうど、子どもが必要を求めないうちに、親が必要を察知して備えるのと同じです。
しかし、イエス・キリストを信じた者は、常に祈りなさい(時間が短かくても長くても)との約束の中に生きています。
祈りを続けるうちに、偶然ではない必然の人生を生きることができます。人生には、良きにつけ悪しきにつけ、突然の出来事、偶然と思えるようなこともあります。
神を父とし、聖霊のうめきとともにイエス・キリストの名によって祈る者には、すべてが必然となる恵みが備えられているから感謝です。
とりなしの祈りの中で起こった最近の出来事です。開拓教会に、障害を持つ青年が導かれました。親はいるのですが天涯孤独の施設暮らしで、就職して会社を解雇され、失業保険をもらっているときに救われました。伝道師は、就職活動を勧めてハローワークに行きましたが、なかなか就職できる会社はありません。
失業保険も後1カ月で終わるころ、伝道師が青年といっしょに書店で本を見ていたら、青年がいません。驚いて捜し始めたところへ電話がありました。でてみると、そのビルの12階にある弁護士事務所からでした。驚いてその弁護士事務所を訪ねると、青年がそこにいました。書店に来た時、そのビルの弁護士事務所を思い出して顔を出したとのことでした。
詳しく事情を聞いた弁護士は、すぐさま市役所に電話。生活保護を出させるように手配してくれました。
伝道師は、天の配慮に感動しました。青年を連れて書店へ行き、偶然その青年がいなくなったのでも、書店の12階に偶然弁護士事務所があったのでもなく、長い間祈り続けた結果、神の摂理の中での必然だったと喜んでいます。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(第一テサロニケ5:16〜18)
目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。(コロサイ4:2)
榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。