2時間と虫刺され8つ。新しい命の誕生に立ち会うのに払った代価だ。新しい命と言っても、その生き物はすでに生を受けている存在で、動いてもいた。
梅雨も明け、いよいよ夏というこの季節、夜道を歩いていると耳元でバタバタという音がした。大き目の昆虫だということは分かったが、一体何だろう。辺りを見回したが暗くて分からず、耳を澄ました。微かではあるが、どこから小さく「ミン」という鳴声が聞こえた。そうだ、セミだ。もうそんな季節なのだと感じさせられた。そしてさらに数メートル足を進めると、今度は電灯の下に樹木に向って地を這って行く虫がいる。近づいてみると、これもセミだった。土から出てきた幼虫だ。セミの抜け殻は良く見かけるが、幼虫から成虫へと羽化する瞬間というのはそうは見られないはず。約2時間、褐色の虫が薄白い「セミ」になるのを見守った。
わずかの時間でまったく別の生き物になってしまったかのようだ。新しい命が生まれたとでも表願したくなるような、神秘的な時間であった。我々人間で言えば、「新たに生まれる」(ヨハネ3:3)ということは神の前にはこのように見えているのかもない、とふと思わせられた。同じ人間には違いないが、全く別の存在となったのだ。
今年は日本のプロテスタント宣教が始まって150年の記念の年。本紙も今年ちょうど7年目を迎えた。150年間宣教してもクリスチャンが人口の1%にも満たない。時間が経ったわりには成長がないと見えるかもしれない。本紙もまた今回は「復刊号」としての出発である。
まるで地中で眠っていたセミの幼虫のようかもしれない。しかし、セミは数年地中に身を潜めてはいるが、正確にその「時」に従って地上へと這い上がってきた。「何事にも時があり天下の下の出来事にはすべて定められた時がある」(コヘレト3:1)と聖書には書かれている。今はまだ地中にいるべきときか。それとも地上へ出て「新たな生」へと巣立つ時か。「時をよく用いなさい」(エペソ5:16)との勧めに従いたい。