「夫婦は一体、一つの人格。しかし、親子は別人格だ」と前に言った。
なるほど子どもが小さいときには、親と子どもは一体で、切っても切れないつながりがある。寝ても覚めても気がかりで、いつになったら手がとれて、楽に寝かせてもらえるかと、たまには別れてみたいほど、それほど親子は一体だ。
しかしほんとうは、それほど一つではない。子どもなんぞというものは、あっという間にはなれていく。寝ても覚めてもピッタンコが、わずか三、四年で手がはなれ、幼稚園でまたはなれ、小学校ではなおはなれ、中学生では、もう別物だ。高校・大学と大きくなれば、子に影響を与えることさえむつかしい。親は金をくれればそれでよい。いっしょに歩こうと言ったって、歩いてもくれぬ。娘は父親なんかは部屋にも入れず、知らずにふろ場をあけたりしたら、痴漢扱いにさせされかねない。
それほど子どもは別人格だ。やがては好きな人が現われて、さらって去っていなくなる。それでいいのだ。子どもがもし、いつまでも親のもとからはなれずにいたら、それこそ悲劇としか言いようがない。四十の息子が「おやじ、百円くれ」といって手を出すようだったらどうするか。思っただけでもゾッとする。子どもなんぞというものは、親から取るものはみんな取り、一日も早く独立し、手の届かぬ者になってくれたらそれでいい。それが親の成功だ。子どもが親を乗り越える。それが理想ではないだろうか。
だから、子どもは必然的にはなれていく。しかし、夫婦は違う。子どもがはなれてゆけばゆくほど、年をとればとるほど、夫婦は一体になってゆく。しまいには、どっちがどっちかわからぬほど、似た者夫婦になってゆく。趣味も人生観もおんなじで、言うことすることそっくりになる。男か女かわからない、中世人間になってしまう。それでいいのだ。それがいい夫婦なのだと思う。
子どもははなれるのだ。だから意識してはなれて生きられるように育てなければならない。しかし、夫婦ははなれない。だから意識して、一つになるように、子どもがいなくてもまどわぬように、しみじみと理解しあって生きねばならぬ。
子ばなれができぬ母親は、夫がはなれてしまう危険がある。
(中国新聞 1983年7月20日掲載)
(C)新生宣教団
植竹利侑(うえたけ としゆき):広島キリスト教会牧師。1931年、東京生まれ。東京聖書神学院、ヘブンリーピープル神学大学卒業。1962年から2001年まで広島刑務所教誨師。1993年、矯正事業貢献のため藍綬褒章受賞。1994年、特別養護老人ホーム「輝き」創設。著書に、「受難週のキリスト」(1981年、教会新報社)、「劣等生大歓迎」(1989年、新生運動)、「現代つじ説法」(1990年、新生宣教団)、「十字架のキリスト」(1992年、新生運動)、「十字架のことば」(1993年、マルコーシュ・パブリケーション)。