国の未来は若者の健全な成長にかかっている。多くの若者の間で倫理観が崩壊し、罪が蔓延する悪循環の構造は若者の健全な成長を妨げる。若者の健全な成長をサポートする社会的な仕組みが切実に求められている。
特に、青少年の体・精神両面において、性的な堕落が深刻な問題となることは否定できない事実だ。このような問題に、日本キリスト教会が口を閉じることなく、積極的に対処していくべきであろう。
教会は性の堕落について断固として純潔を守る排他的な態度と、性的な罪に苦しむ人々を抱擁する寛容な態度が同時に要求される。
聖書の言葉を信じ、世の罪悪から身を汚さないよう自身の信仰を守り、罪に対して聖書的価値観によって正していくことが重要だ。教会は神と人の正しい愛の関係を教え、その上に人と人の正しい愛の関係を教えるべきだ。先ずは、罪に妥協しない絶対的な信仰と正しい教育が必要だ。
さらに、罪の赦しと心の癒しを施す教会が必要だ。現代社会の中で、新たに導かれる求道者の中には性的な罪の経験から心の傷をひきずるケースも増えてきているという。罪に苦しみ心に傷を持つ人々を癒す場が切実に求められる。排他的で一方的な批判ではなく、罪の赦しと癒し、霊的な平安を与える教会を目指すべきだ。
教会は本来、罪人の共同体だ。イエスは病人を癒すためにこの世に来られたからだ。したがって、互いを罪に定め合うのではなく、他人の罪を自分が背負うとする福音的な生き方を目指す場所が教会だ。罪の重荷に苦しむ人が、イエスの福音に触れ、重荷を下ろし安息を得る愛の教会が必要だ。
聖書の言葉には命があり、癒しがある。イエス・キリストを、心を開いて受け止める時、罪の赦しと救いを体験することができる。
「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても羊の毛のようになることができる。(イザヤ1:18)」
どのような罪も神の愛から切り離すことはできない。霊的に困窮し、罪に苦しむ多くの若者が福音に触れ神の愛に触れる機会を積極的に作るべきだ。神の愛で心を満たした若者が作る日本の未来が美しく明るいことは言うまでもない。