多くの人々は物質的な豊かさ、名誉と富のために働いて暮らす。しかし、クリスチャンが信仰生活の中で生きる糧とするものは「謙遜」である。謙遜とは、自分の能力を過信せず、神を前にして謙虚となることである。神の召命に対して「主よ、しかし」と言わず、「主よ、そのとおりです」と受け入れる心である。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)
有名な山上の垂訓の一節である。ここで「心の貧しさ」について吟味したい。「心の貧しさ」というと、われわれは心の荒廃や感情の乏しさを連想するが、当時イエスの話されたとされるアラム語の「貧しい」には、「謙遜な」「柔和な」という意味がある。つまり、「心の貧しい者」とは、「へりくだり、神に寄り頼む者」と解釈される。
神の前に立ってへりくだり、自分の罪と無力を素直に認めるとき、われわれの霊は平安と恵みに満たされる。主の慈愛がわれわれの罪と咎(とが)を覆い隠してくださるからである。われわれの存在の根拠は、主の赦しによって確かなものと補償されるのである。
現代人の抱く不安は、物質的な乏しさよりも精神的な虚無感から来る。つまり物質は満たされるにもかかわらず、心は満たされない。そして、その虚無感の原因は「心の貧しさ」を忘れてしまったからである。
社会の罪悪を病気に例えるなら、その病巣の根底には人間の傲慢がある。主を知らない人々は、偶像や占い、縁起やまじないを信じる一方で、神に頼ることのすばらしさを知らない。クリスチャンさえも、知らぬ間に主イエスから遠ざかり、自尊心や人間社会のしきたり、名誉といった偶像を心に据えていることが多々ある。人間が神から離れ傲慢になるとき、あらゆる罪悪が生まれる。(ローマ書1:28) 自分自身を神とし、自分の罪を認めず、良心を忘れ、やがて罪の悪循環が心の全体を蝕んでいく。
神の愛を知る者は、知らない者たちに神の国の福音を伝えなければならない。神を知らず罪悪に溺れ苦しむ霊のために、神の愛を実践すべきだ。傲慢な心を捨てて貧しい心を取り戻し、聖書の言葉だけに従って福音を伝える伝道こそ、自身を犠牲にしてまで迫害者を愛し、愛を注ぎ尽くしたのが神のひとり子、イエス様だった。われわれは、自分の生涯を使ってこの愛を人々に示し、神のふところに案内していきたい。
日本は非キリスト教国で、世界的にみても非宗教者数の多い国だという。ここでの宣教は、使徒パウロがたった一人でギリシャの巨大商業都市コリントを伝道することに似ている。あるいは、偶像の多い日本は、「いまだ名の知られていない神」の祭壇まで設けたアテネに例えることもできる。日本での宣教は決して簡単ではない。
もし日本宣教の王道があるなら、先ずパウロのように、自分自身の知識や身分に頼ることさえ恐れ、自分の弱さを隠さず、神の前で謙遜になることではないだろうか(IIコリント1:9)。そのとき初めて、主の導きを感じるようになり、謙遜と従順さをもって従っていくことが可能となる。
真の愛を失った心を回復できるのは、人の努力や能力ではなく、永遠に変わらない神の愛にほかならない。人はわれわれの姿を見て「神に頼るなど、なんという弱さ」と嘲笑するかもしれない。「イエスは十字架で殺され、失敗したではないか」というかもしれない。然り、われわれはあまりに無力で、誇るものなど何一つない。だが、神がわれわれと共にいるのだから、われわれは誰よりも強い。われわれにとって、死は命であるから、十字架は勝利なのである。