ヨハネに忠誠を尽くし、共同生活をしていた少数者はヨハネを離れることはなかったが、他の弟子たちはこだわりなくイエスに従った。ヨハネがそのように仕向けたのであった。ヨハネは「わたしは衰退していくが、イエスはますます繁栄していく」と公言してはばからなかった。また、「イエスを花婿に例えるなら,わたしはその付き人にすぎない」とも言った。「わたしの弟子たちよ。これからはイエスについて行きなさい」と言ったと同じであった。しかもその時、ナザレのイエスは全く無名で、ヨハネは誰よりも人気を博し人々の期待を集めていた時なのだ。
ペテロは興味深い申し出をイエスにした。「ガリラヤ地方にこられたら、どうぞ私の家にお泊りください。家は大きく広いのです。何日でも思いのままに滞在してください。家はガリラヤ湖畔のカペナウムにあります」
イエスがヨハネの教団から離れた理由は、他にもいくつかあった。
エッセネ派で育てられたヨハネは、その慣習から脱皮して人々の前に現れて、罪の悔い改めと赦しを教えるようになったが、教えが終わるとやはり荒野に帰って行った。ナザレの人々の間で育てられ働いたイエスは人好きであった。彼は人々の間で住みたいという強い欲求を持っていた。人々を離れてではなく人々の間に住み、人々の近くで活動する教団にしようと思った。ペテロの「私の家に思うままに滞在してください」という申し出は妙に魅力的だった。
ヨハネは、やはり陰気的だった。明るく笑い声が爆発する家族で育ったイエスには不自然でもあり暗すぎた。彼はもっと人間らしく自由であり自然体でいられる仲間作りをしたかった。ヨハネは弟子たちにとって近づきがたい権威をもっていたが、イエスは自分の追従者と近く親しくしたいとも思った。
ヨハネは禁欲的であった。限られた「いなごと野蜜」を主食とし、一週間に二日の断食をしていた。ワインは決して口にしなかった。食事時間に語り合うことも少なく、笑い声が起こることもなかった。ヨハネ教団にいた時はその慣習に従ったものの、イエスにとって不自然であり、きつくもあった。もっと人間らしい食事の時間にしたかった。仲の良い家族が楽しく食べるように食べたかった。地とそれに満ちるものはすべて神の祝福であり、感謝して食べるならすべてのものは清いと考えた。
ぶどうとぶどうから作られたワインは神からの最上のプレゼントだから大いに楽しむべきだとも考えた。儀式だけのワインではなく、楽しみ生活を祝うためのものでもあった。父ヨセフが母マリヤの手作りのワインを飲んで愉快に笑った時の顔を懐かしく思った。
習慣的な断食は一切廃止しよう、と決めた。競い合って断食した時代に、断食を廃止したリーダーは他にいなかった。というより、考え付かないほど宗教と断食は密接していた。
ヨハネは死海のほとりのユダの荒野から離れることはなかった。ヨルダン川に姿を現しても、そこは死海に注ぎ込む川の出口に近い場所だった。ヨハネはガリラヤ地方どころかユダヤ地方を歩き回ることがなかった。伝道したものの、住処はユダの荒野であった。イエスは人々のいるところならどこでも行こう、と思った。ユダヤ人が毛嫌いして決して近づくことのなかったサマリヤでも、ブタを飼っており食したゲラサ地方でも、イスラエル国内を離れた地方でも行こうと思った。
ヨハネは女の弟子をもたなかった。当時は女の弟子を従えるリーダーは皆無だ。人々は祈祷書の一文を繰り返し読んで祈っていた。「神よ。私が異邦人にも女にも豚にも生まれなかったことを感謝します」。ヨハネはエッセネ派の戒めに従って、女が近付くことを許さなかった。イエスは、「神はご自分のかたちに似せて人間を造り、男と女に造られた」ことを知っていた。秩序としては男が先に造られたのだが、女の価値は男のそれに決して劣ることはなかった。女を除外することなど、イエスにとって論外であった。イエスは母マリヤを愛し尊敬していたのだ。そして、マリヤは女だった。
ヨハネは重い皮膚病患者を近づけなかった。汚れた者とし、その汚れに触れることは自分の心もからだも汚すことであった。イエスにとって、それは罪の結果でも神からのろわれたことでも、汚れた者でもなく、ただ肉体的な病に侵されたにすぎなかった。彼らはかわいそうな人々に過ぎなかった。
イエスはヨハネを「女が産んだ最も偉大な人物」と呼んで最大の尊敬心をいだき、彼から学んだ遺産を尊び感謝したが、違いもまた明らかであった。ヨハネの弟子たちは、イエスをヨハネの後継者になると思い込んでいたが、それはヨハネもイエスもあり得ないと知っていた。二人は、それぞれ神から与えられた使命に忠実に生きようとしたのであり、その使命は明らかに異なっていた。
荒野の霊戦。
イエスは仕事にもどらなければならないガリラヤの男たちと離れて、ひとりユダの荒野に向かった。聖なる霊がイエスを荒野に向けさせていた、いや追い込んでいたと言うべきだろう。メシヤ活動を始める前にしなければならない一つのこと、それはサタンと戦うことだった。(次回につづく)
平野耕一(ひらの・こういち):1944年、東京に生まれる。東京聖書学院、デューク大学院卒業。17年間アメリカの教会で牧師を務めた後、1989年帰国。現在、東京ホライズンチャペル牧師。著書『ヤベツの祈り』他多数。