「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします」(詩篇5篇3節)。
子どもの頃、ラジオから「朝だ元気で」という明るい歌が流れてきた。
「朝だ、朝だよ、朝日がのぼる、燃ゆる大空 日がのぼる、みんな元気で 元気でたてよ、朝は心を きりりとしめて、あなたも私も 君らも僕も 一人残らず そら起て朝だ」という歌詞である。この歌が大好きだった。
第二次世界大戦に敗れ失望のどん底にあった日本国民にとって、「赤いリンゴにくちびるよせて」やこの朝の歌は、人々に希望をあたえ、人の心をふるいたたせる歌であった。
朝になると、昨夜まで悲しみや失望の中にありても、不思議に、希望と喜びにかわる。
神はすべての人々に希望の朝を用意してくださっている。病床にいる人にも、野に出でて働いている人にも同じ朝だ。
クリスチャン生活が、聖霊に支配され充実していくかの鍵は、神が与えて下さる朝をどのように用いるかにかかっている。
アンドリウ・マーレーは『暁の待望』の中で、「主なる神、あなたのいつくしみ故に、全地、自然界は朝毎にみずみずしく新鮮であります。あなたを『朝の神』として知り奉ることを教え給え。あなたは、あなたの御僕のために、この朝の時に於いていかばかりのことをなし給いましたか。・・・・・・願わくばこの朝の時こそわが神とさいわいなる交際の時たらんことを。主よ、しかして、これは又あなたのあわれみによって、わが家庭の祝福の時であり、それによりて彼らが終日あなたに近く過ごすことをえんことを。しかして御前に伏してこいたてまつる。あなたの凡ての民の家々において、朝の家庭礼拝は聖く厳守せられ、その唯一の方途によって彼らの終日が聖潔に保たるるに至らんことを―。」と祈っている。
詩篇の記者ダビデは「朝明けに、私の声を聞いてください」と祈っている。雅歌2章14節には、「私に顔を見せておくれ、あなたの声を聞かせておくれ」とある。神は、あなたの祈りの声を聞き祈っている顔を見たいと思っておられる。
祈りは、神との会話であり、霊的呼吸である。早朝祈祷に教会に来られた一姉妹は、「イエス様お早うございます」と祈っていた。すでに天に帰った一姉妹はマイナス20度にもなる朝も主の愛に押し出されて、八年間にわたり朝の祈りに教会に来られた。
朝祈るクリスチャンは、教会の宝である。日本のクリスチャンが朝を大切にし、朝の時間を主にささげるなら、日本の教会はかわり神の働きがみられるであろう。朝、自らの霊性のため、日本の救霊のために、地域社会の救いのため、家族のために涙を流して主にさけぶなら、主は祈りに耳を傾けて下さるだろう。『婦人会が祈る時』という本があるが、みんなが目ざめて祈り出したら、すばらしい主の働きを見るはずである。
私たちのために今、生きて祈りたもう主イエスは、人の姿をとって地上に生活された時に、朝祈られた。「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所に出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1章36節)
ジョン・ウェスレーは、早朝4時から二時間は祈った。ルーテルは、牧師を造るものに三つあり。いわく祈祷、黙想、試練。「もし私が毎朝二時間を祈祷に費やさなかったならば悪魔は、その日一日私に勝ち通しである。よく祈りし人は、良く学びし人なり。」といっている。理屈なしに祈ろう。ことごとの問題を主の前に持ち出そう。
数日前も教区の先生方が学院に来られて、大会のための半徹夜祈祷会を持った。力をそそぎ出して二人ずつ組んで心をあわせて祈ったが、たしかにめぐまれた。今、必要なのは、単純な信仰と祈りである。韓国の教会のように祈りに力を入れる教会に成長したいものである。
学院では5時半から一時間二十分、朝の祈りをしている。これより早く起きて祈っている兄姉も見られる。過日米沢教会によせていただいた時、5時45分からの早天に数名の方々が励んでいた。「早天祈祷会を何年守っていますか」とたずねたら「三十年です」と言われてびっくりした。学院のために、祈りの友をよく読まれて祈っていて下さり感激した。
神と朝一番交わると共に、日常生活において人と交わりを大切にしよう。イエス・キリストは私たちをきよめて、わがままから解放し、神を心から愛し、隣人を心から愛する器に変えて下さる。
万物の終わりは近い。「ザ・デイ・アフター」(その翌日)や「核戦争後の地球」などのテレビ映画が世界中の茶の間を核のおそろしさで満たしている。
ノアの時代のように人の思うところは神のみこころに反して汚れた生活におちこんでいる。神は、未信者に対して「すべての人が救われて真理を知るようになるのを望んでおられます」とテモテ第一2章4節に記されている。
クリスチャンに対する神のみこころは「あなたがたが聖くなることです。神が私たちを召されたのは汚れを行わせるためではなく聖潔を得させるためです。」とテサロニケ第一4章3、7節にのべられています。
過日、「ママどうして」の映画を見たが、胎児がやみからやみへとほうむられている姿に心がいたんだ。三十五年間に六千万人が優生保護法のもとにほうむられたという。日本人口の約半分である。神はこのような状態を喜ばれるであろうか。神は、神に創造され、神に愛されている人間が自分勝手な生活をしているのをごらんになって、心をいためておられるにちがいない。主イエスの痛みをわけていただき神から離れて孤独と空しさの中にいる人々のために朝、祈ろう。そして和解の福音の使節として主の福音を伝えよう。
工藤公敏(くどう・きみとし):1937年、長野県大町市平野口に生まれる。キリスト兄弟団聖書学院、ルサー・ライス大学院日本校卒業。キリスト兄弟団聖書学院元院長。現在、キリスト兄弟団目黒教会牧師、再臨待望同志会会長、目黒区保護司。