われに返ったヨハネはつぶやいた。小さな声だった。あまりにも小さな声だった。しかし、針一本落としても聞こえるような静けさの中では、聞き逃すものはいなかったし、聞き逃すことはできなかった。からだ全体が耳であるかのように彼らは聞いた。
「見よ。これぞ世の罪を背負う神の子羊」。ヨハネの声はふるえていた。イエスに器を渡したヨハネは「とって飲め。世の罪を赦すために流すお前の血だ」。パンを渡し「世にいのちを与えるために砕かれるお前のからだだ」と言った。
「父よ。あなたの御心が行われますように」と言って、イエスは器に残ったワインを一気に飲み干した。パンは繰り返し噛み味わった。自分のからだが砕かれ、自分の血が流される象徴であったが、痛みはもはやなかった。むしろ、パンとぶどう酒は今まで味わったことのないような喜びをもたらした。
ヨハネは「油をもってきなさい」と命じた。ヨハネがイエスの頭に油を注ぐと、油のしたたりは顔のひげをぬらし衣につたわった。部屋は香油のかおりで満ちた。凛としたヨハネの声が部屋に鳴りひびいた。
主の霊がお前の上にある。
主はおまえに油を注ぎ、
貧しい者に良い知らせを伝え、
心の傷ついた者をいやすために、おまえを遣わすのだ。
捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
主の恵みの年を告げるために。
「ヨハネよ。わたしにバプテスマを授けてください」。イエスは言った。
「わかった。本当はわたしがお前からバプテスマを受けなければならないのだが」と言いながら、それまでイエスにバプテスマを授けることを堅く拒んでいたヨハネは承知した。同じ水のバプテスマだが、その意味合いは全く違った。他の弟子たちにとって入学式を意味したが、イエスにとっては卒業式を意味した。弟子たちにとって罪の悔い改めを意味したが、イエスにとってはメシヤ活動に立ち上がることを意味した。弟子たちにとってヨハネと共にいることを意味したが、イエスにとってはヨハネを離れることを意味した。
「さあ、すぐにヨルダン川に行こう。」食器をかたづけることも忘れ、修道所を空にしてヨルダン川に急いだ。
ヨハネはイエスと川に入り、弟子たちを見まわして大声をあげた。「神の子羊だ」「わたしは水でバプテスマを授けたが、イエスは聖霊と火によってバプテスマを授けるようになる」
「彼の靴の紐をとく価値のないわたしがバプテスマを授けるのだ」と言って、イエスのからだを川に沈めた。
イエスが水の中から立ち上がると、上空の雲が裂け、天から純白な鳩が降りてきた、かのように見えたが、それは鳩ではなく聖き神の霊だった。イエスは聖霊に満たされた。
「あなたはわたしの愛する子。わたしの喜び。」という父なる神の声が聞こえた。
イエスの心には喜びがあふれた。このことばは神の霊という筆によってイエスの魂に刻み込まれた。イエスのバプテスマを、父は肯定し、承認し、確証されたのだ。
何が確証されたかと言えば、イエスが神の子羊として贖いの犠牲の苦難の道を受け入れたという決断であって、それに向かって進むイエスの勇気を父が喜ばれているのだ。父が喜んでおられることこそ、イエスにとって至上の喜びだった。このことばさえ聞けるなら何でもできる、イエスはそう思った。(次回につづく)
平野耕一(ひらの・こういち):1944年、東京に生まれる。東京聖書学院、デューク大学院卒業。17年間アメリカの教会で牧師を務めた後、1989年帰国。現在、東京ホライズンチャペル牧師。著書『ヤベツの祈り』他多数。