夏休みに母親と一緒に娘(高校生)がイエス様を信じてバプテスマを受けました。祖父母もクリスチャンで、特に祖母は良く祈ります。その祈りのほとんどは自分のことより、息子娘家族と孫、曾孫のためです。受洗した高校生の孫も大学受験などもあり、特に洗礼を受けクリスチャンになったことが嬉しく、とりなしの祈りにしっかりと覚えられていました。
2学期が始まり、朝早く自転車で通学途中、突然前車輪に何かが詰まりストップ。かなりのスピードが出ていたので、そのまま彼女は吹っ飛びました。そして数メートル先の路上に顔から落ち、その身体の上に自転車が降ってきました。
後ろを走っていた自転車の男性が駆け寄り、すぐ119番で救急車の手配をし、その間に彼女は家に電話しました。ビックリした母親は、救急車と聞きすっ飛んで駆けつけました。
血だらけでしたが、幸い絆創膏を張っていた顔も打ち身の青あざだけ。右腕の打撲や顔中に少しの擦り傷はありましたが、大丈夫との事でその日は学校を休みましたが、翌日から元気に登校しました。
事故から3日目には元気で礼拝に出席し、美しい顔に傷がつくこともなく、親子そろって神様に感謝する姿は輝いていました。
とりなしの祈りには病気をいやし、災いや悩みから守られ、健康や祝福を与えられるという恵みがあります。
「アメリカの病院で行なわれた、とりなしの祈りの効用についての報告があります。重い心臓病の患者393名を対象に、ひとりひとりに向けて回復の祈りを行い、祈らないグループと比較をして見ました。すると、祈られたグループの患者群は祈られなかったグループの患者群より、明らかに症状が改善されていました。祈ることが何らかの形で心臓病を患った人たちに良い影響を及ぼしたと報告されたのです」と、人は何のために祈るかという書物にありました。
聖書はとりなしの祈りで満ちています。「あなたは本当に、正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼしつくされるのですか。50人の正しい人がいたら、45人・・・40人・・・30人・・・20人・・・もしやそこに10人見つかるかもしれません」と切迫して祈り、「滅ぼすまい。その10人のために」(創世記18:22‐32)との主の答えをいただくアブラハムのとりなしの祈り。
偶像を礼拝し堕落したイスラエル民族にために、「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし彼らの罪をお赦しくだされるものなら。―しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください」(出エジプト記32:31‐32)といのちを投げ打ってとりなしするモーセの祈り。
使徒パウロは、「そこで、まず初めにこのことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(テモテへの手紙第一2:1‐4)と勧めています。
わずか30秒でも日本の福音化のために、すべてのクリスチャンが毎日とりなしの祈りを実行する時、十字架の救いが全日本を覆うリバイバルとなることを確信します。
榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。