14.人生の四大苦(1)生
お釈迦さまは、人生に四大苦があると言われました。それは何でしょうか?
「生・病・老・死」(しょう・びょう・ろう・し)
なんと、「生きる」ことがトップバッターです。お釈迦さまは生きることが苦しいと言う。病気になることも苦しい。年を取ることも苦しい。死ぬことは一番苦しい。どうしたらいいのだろうかと、長い年月をかけて坐禅を組んだ。結局、それは「悟る」ことだと悟った。「悟る」ことだ。でも、悟るって難しいことです。私もちょっと坐禅を組んだことがありますが、そんな簡単には悟れません。
15.「悟り」か「信仰」か
私の先輩で、東大のインド哲学の博士課程で学んだ人がいます。彼は「仏教的な理念(慈悲の精神)で人類に尽くしたい、どうしたらいいのか?」と悩んでいました。ついに、「私は裁判官になって国家・社会をよくしたい」と決心して、私と一緒に司法試験を受けて、彼も合格したのです。
それで、まず裁判官になった。10年経って、裁判官を辞めたのです。一生懸命に裁判をやったけど、社会は良くならない。やはり、これは国家権力を背景に戦わなくてはいけないと、今度は検事になったのです。10年間、検事でがんばった。そうしたら、また辞めたのです。それで、今度は弁護士になった。「いやあ、社会の巨悪を撲滅しようと思ったけれども、増える一方だ。弁護士になって人権を守る。それが一番だ!」と、弁護士になった。ところが、10年後、弁護士を辞めて、一応、資格だけはまだ持っていますが、今は仏教大学の先生をしているのです。
けれども、いまだに「悟り」は得られないのです。「苦しい、生きることは苦しい。自分は一生懸命がんばってやってきたけれども、どうしていいのか、まだ分からない。日本の社会は一体どうなってしまうんだ」。その苦しい切々たる思いを、手紙で何度も私に送ってくれるのです。
彼の奥さんは、なんとクリスチャンなのです。いつもニコニコしている。「『イエスさまを信じれば永遠の命をいただけるのよ。永遠の命をいただいたら、この世のすべての問題は解決よ!』家内からよくこう言われるんだ。しかし、『永遠の命』といわれてもよくわからない。イエスさまはすばらしい方だけどね、お釈迦さまもすばらしい。私にはどちらを取っていいか分からない。どちらか一人に限定するわけにいかないんだ」と言って、今、両方信じようとしています。
人間の四大苦を解決するために、神はイエス・キリストという人となられて、その苦しみを全部、ご自分が身代わりになって負ってくださった。これが、聖書の福音です。
「パッション」の映画のとおりです。血を流して、鞭で打たれて、苦しんで、そして、十字架で命を捧げてくださった。われわれの身代わりになってくださったのです。そして、復活して、私たちの悩みや問題を全部、根源的に解決してくださった。これが福音です。この人となられた神「イエス」というお方を信じれば、すべての問題は解決なのです。それで、奥さんは毎日ニコニコ、楽しく暮らしているわけです。
イエスさまを選ばないと、お釈迦さまでは足りないのではないでしょうか。なにしろ、悟りの境地に行くまでが大変。もしかしたら、何億回も生まれ変わらなければならないのです。この一生では短すぎる。でも、イエス・キリストを信じるということは、誰でも一瞬でできるのです。うちの子供も信じていますし、高齢の方も、入院中の方も、獄中の死刑囚の方も、誰でも、いつでも信じることができるのです。
このあらゆる問題の解決である「永遠の命」を、イエスを心に受け入れた瞬間にいただける。「そんな馬鹿な!そんな虫のいい話があるものか!」。誰でも思うでしょう。私もそう思いました。でも、聖書にはそう書いてあります。考えてみれば、太陽も、地球も、空気も、人の愛も、本当に大切なものは、なにもしないで、1円も払わないで、ただで受けているではありませんか。
神の救いの恵みは、あまりにも大きすぎて、よく分からないのです。「永遠の命」、すばらしそうだけど一体何でしょう。永遠に生きる、これは分かりますね。体が死んでも、あなたの霊は天国で永遠に生きる。すばらしいことです。でも、それだけではないです。「永遠の命」とは、「神の命」のことです。神の愛を無制限に受けるということです。神の愛を無限に受ける。そしてまた、神の豊かさを無限に受けることです。神が持っている無尽蔵の富を無制限に受ける。それが「永遠の命」の中身です。
メル・ギブソンを見てください。神を全面的に信頼して、私財27億円で製作した映画「パッション」を、世界中の何億人もが観ている。イスラム教やヒンズー教の人たちも観ている。しかも、興行収入は、すでに6百億円を超えている。
しかし、何千兆円でも買えない、もっと豊かな心の富、すなわち人を愛する心、神を信じ、永遠の命を信じる心、これが無条件にいただけるのです。イエスという方を信じればです。信じるということは、このイエスというお方を私たちの心の中にお迎えすることですから。イエスという全能の愛の神を自分の人生の中にお迎えして、このすばらしいお方と一緒に永遠の神の世界に生きる。
それでは、イエスというお方は、一体全体どういうお方なのか?
聖書によると、イエスこそは、天地万物の創造者です。お釈迦さまも、孔子さまも、マホメットさまも、世界の歴史上偉大な方として尊敬されていますが、彼らもまた、イエスによって造られ、イエスによって命を与えられた人間にすぎません。そもそも、イエスと彼らを比較することはできないのです。
そのような超偉大なお方が、愛をもって、私たちを救うために、鞭で打たれ、血を流し、十字架で命を捧げてくださり、復活してくださった。それは人間、私たちのためです。ご自分のためではないのです。私たちのために、そこまでやってくださったイエスというお方が、目には見えませんけれども、私たちの心の中に、私たちの人生の中に、入って来てくださったのです。
「さあ、わたしと一緒に生きよう。もう大丈夫だよ。わたしは永遠の愛をもってあなたを愛している。あなたは死んだって大丈夫だし、困ったことがあったら助けてあげるから。そして、悲しい時は慰めてあげるよ、苦しいときは励ましてあげるよ。どんなことがあっても、わたしはあなたを見捨てない。さあ、わたしと一緒に栄光と歓喜の世界に生きるんだ!」
こう言っておられます。これは二人三脚、イエスさまとの二人三脚の人生です。そうすると、どういうことになるかというと、「生きる」ことが楽しいのです。苦しいこともありますが、本質的には楽しい。苦しみの中にも、甘い喜びがあり、これを楽しむことができる。生かされていることを心の底から感謝できる。「生きる」ということ、これは神の恵みですから。死んでから楽しくなるのではない。今すでに永遠の命を受けているわけですから、生きることがものすごく楽しくてしかたがないのです。(次回に続く)
佐々木満男(ささき・みつお):国際弁護士。宇宙開発、M&A、特許紛争、独禁法事件などなどさまざまな国際的ビジネスにかかわる法律問題に取り組む。また、顧問会社・顧問団体の役員を兼任する。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。このコラムでは、2004年11月6日のインターナショナルVIPクラブ広島特別講演会での講演録を再構成し、一部加筆したものを紹介する。