ある統計によると、50%以上の企業で、うつ病やストレスなど「心の病」が原因で1カ月以上休業している社員がいるという。このように、現代に生きる我々にとって心の病は深刻な社会問題となっている。
心の病にかかりやすい人には、自分を必要以上に過小評価する自虐的傾向があるという。確かに、我々は罪の性質を生まれつき持っている。自己を否定し、罪を悔い改めることは大切だ。だが、同時に、我々は愛の神によって「神の形」に似せて創造された貴い存在だ。自虐は罪悪感に心を支配された状態をいう。これは、神の一方的な愛と赦しを否定することに繋がりかねない。
教会は真の愛を教える所だ。自分を愛せる人が、隣人を愛することができる。心からの奉仕は、神によって創られた自分を愛することから始まる。自己の実現には、まず自己の存在の発見が不可欠だ。
自分という器に神の尊い愛と恵みが注がれ、満ちあふれたとき、我々は他人のために自己を犠牲にして器を傾け、再び器を空にすることができる。空となった器は、再び神によって満たされる。
教会は、人と神との人格的な出会いを助ける。聖書の神が他の神々を超越した「私の神さま」であることに気づくとき、人は恐怖から解放され、人々の前で真の自由を宣言するようになる。個人的体験が宣教に生かされれば、多くの人々が共感を覚え、救いに導かれるはずだ。信徒が伝道に参加する教会は必ず成長する。信徒1人ひとりの生き生きとした証しを通して聖霊が働きかけ、未信者に感動を伝えるからだ。自身に注がれた恵みの体験を伝えることこそが伝道のメッセージになるべきではないだろうか。
個人の主観的な感覚や体験を尊重するポストモダニズム以降、相対主義が促進された。キリスト教のアイデンティティが問われる現代では、信徒による個人的な救いの証しが、伝道やキリスト教共同体の一致と和解の鍵となるのではないだろうか。
信仰とは神と人との個人的体験だ。信徒が神との交わりの質を高め、その体験を証しするとき教会は質的、量的に発展する。信徒の交わりの焦点が神の愛と恵みにあれば、救いの感動が教会を満たす。そのような教会には、たくさんの人々が自然と引き寄せられるはずだ。