祈りの時、みこころがなりますようにとよく祈ります。様々な願いが心に起るとき、どれがみこころからのものかわからなくなります。そして願ったことがかなえられなかたら、みこころではなかったのだと変な安心をしてしまうこともあります。
生駒聖書学院の責任を引き受けた年、アメリカへ行きたいと思いました。それはみこころだろうか。子供が生まれたばかりでお金もなく、1カ月も教会と学院を留守にすることになります。
祈りながら聖書を開くと、「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ2:13、口語訳)とのことばに出会いました。
今まではたくさんの願いが心に起るとき、まずみこころだろうかと考えました。するとすぐ、そんなに大きなことはみこころではないという思いが来るので、やはりみこころではないとその願いを捨てていました。
また、誰かに相談すると、ほとんどがみこころではないと思うよと否定されることが多くありました。
とどめは悪魔がささやきます。お前にそんなことを願う資格があるのか。そんな願いは神のみこころではないと全面的に否定する思いを与えます。
祈りの中で与えられた御言葉は、第一に、神はあなたがたのうちに働きかけて願いを起こさせてくださる。神がご自分
の子とされた者に、みこころのままに働きかけてくださるのです。だから、与えられている思いは神の働きかけだから、その願いを起こさせてくださるのだとわかりました。
第二に、実現に至らせるのは神であるので、みこころにかなう願いは必ず実現することも信じることができました。
第三に、それは神のよしとされることであることも、すっきりと聖霊によって理解することができました。
その日以来、神のみこころを決めるのは自分でもなく、人やましてや悪魔に決めさせてはいけないことが明確になり、神ご自身がみこころを決めてくださる喜びを体験しています。
神は、ご自身のみこころの全啓示を聖書によって明らかにしておられます。聖書のみことばをしっかりと受け止めるとき、そこに神の願っておられる幸せを体験できるから幸いです。
神のみこころを確信して祈るとき、そこに必ず起こされた願いが実現されていく、神がよしとしてくださる祝福を受けることができます。その日以来、どのような願いが起こされても、みこころは神に決めていただくことにしました。
祈りのとき、もしみこころならばという願いがかなわなかったときの言い訳となるような言葉を使わないで、聖書の約束に従って、単純明快に、率直に祈る恵みを与えられています。
全費用も不思議に備えられ、アメリカへ1カ月間の宣教奉仕へ出かけ、さらに大きな祝福を体験できました。
祈ることが神のみこころであることを確信して、イエス・キリストの福音を信じて救われる人々が起こされることを楽しみに伝道したいものです。
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。(ヨハネの手紙第一5:14‐15)
榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。