先の総選挙で圧勝した小泉政権は郵政民営化法案を通過させた。自民党は、法案に反対した「造反議員」に離党を迫るなど、人々を驚かせ続けた。
議員の多様な意思主張にも関わらず、「党の方針に反する」という理由で除名することは、民主主義国家として大きな課題を残す行為だ。大手メディアもこの点を支持することなどからも、現代の日本社会に根強く残る権威主義的な管理体制を感じることができる。
日本は、仏教や儒教の影響で、因果応報を唱える律法主義や、上下関係を意識する封建制度の構造を受け継いできた。現在に至るまで、日本人は閉鎖的体質を脱却できず、結果として国際社会でも日本は完全に孤立した国家となった。国家の真の改革は排他性の解消とある程度楽観的ともいえるほどの柔軟性の習得から始まるといえる。
弱者は強者に仕えるもの、垣根の向こうは敵だらけなどと認識する文化の中では、我々の心は常に「侵略」と「疎外」の懸念に支配されていて、安息とかけ離れたところにある。
律法的で封建制的な社会の限界は、利己主義に陥り傲慢になる危険性にある。傲慢は必ず大きな罪を招く。傲慢に支配された人間は、自分の犯した罪を隠蔽するためにあらゆる手段を尽くす。このような罪悪の文化の中に我々は生きている。多くの人々が、罪を犯した罪悪感に苦しみ、自虐と自傷を繰り返している。
世俗に絶望し刺激を求めて罪におぼれる人々に、我々クリスチャンにこそ、強者が弱者に仕え、敵を愛する「キリストの文化」を紹介する責任がある。我々自身も彼らと同様、かつては暗闇の世をさまよっていたが、主イエスに歩み寄られて救われたからだ。
キリスト教が教える神は、君臨して支配する神でも、お布施や功績の報酬に従って「ご利益」を与える神でもない。我々が知った神は、人間が想像もしなかったほど卑しいところに生まれ、社会の底辺にいる人々と共に暮らし、無学な漁師らを教え、病人を癒し、律法学者に軽蔑されていた罪人を受け入れ、自身を十字架で殺した人々をも赦した神だ。イエス・キリストの栄光は、彼を待ちわびていた人々の考えとは全くかけ離れた、呪いのような十字架の死だった。
しかしそれは、我々を愛するための犠牲だった。十字架は、死や敗北ではなく、真の命であり、勝利と栄光だった。我々は、彼の流した血潮のような真紅の愛によって罪から解放され義人とされたのだ。キリストの文化とは、この愛の土台の上に咲いた花だ。
自身の命まで捨てた主イエスの生涯は、律法的な社会で合理主義と虚無感に慣れ親しんだ我々のそれとあまりにもかけ離れている。社会から隔離された病人や罪人と一緒に食事をするイエスを、封建的文化に生きる我々は、不敬虔で愚かと思うかもしれない。我々の作り上げた常識で見た神の愛は、余りにも大きく、かえって見逃してしまうことがある。
異邦の地で福音を伝えることはその地の大規模な構造改革と言っても過言ではないはずだ。だからこそ、クリスチャンは世俗文化に影響されてはいけない。我々が目指す文化は、扉を固く閉ざした欧州の教会が陥ってしまった既成概念の繰り返しでは達成できない。教会は、信徒を訓練して未来の指導者を生み出し、内から外へと向かう体系的な流れが必要だ。
我々の信仰は、律法主義と自己中心に陥る危険性と常に隣りあわせだ。
教会籍制度は、受洗を記念し、信徒同士の連帯感を育てることに役立つ。教会の一員としての自覚が生じる。教会が人的、経済的に成長する上で非常に重要な制度だ。
だが、その副作用も無視できない。教会籍のために、信徒が転会先の教会を選ぶ権利を奪われ、クリスチャン個人の活動が「教会の方針に反する」として抑圧されるなどの恐れがある。信徒が権威者に自由を奪われる危険性も否定できない。また、教会籍が、救われた証明書や免罪符のように扱われてはいけない。
教会員の活動を管理規制した結果、最終的に被害を受けるのは教会自身だ。歴史的、国際的にみても、信徒を規定で縛り管理した教会の霊的健康は長続きしなかった。かえって、信徒個々人の伝道に対する情熱を尊重し、自主的な働きを奨励する教会が、健全かつ長期的に成長している。教会籍制度は信徒をつなぎとめておくことに役立つと思われがちだが、実際は、信徒を外に放出する教会が大きな成長を遂げてきたのだ。これこそ、自分の器を空にすることによってかえって満たされるという、聖書が教える逆説の真理だ。日本のキリスト教の成長と発展のために、教会論に対する意識改革が必要かもしれない。
新約聖書「使徒の働き」には、初めて「クリスチャン」と呼称されたアンテオケ教会を創設したのは使徒たちではなく、迫害から逃れてきた名も無き信徒たちだったことが記されている。そして、彼らがギリシャ人など異邦人を伝道し始め、世界宣教の歴史が拡大した。さらには、アンテオケ教会の成長は、バルナバが当時無名の信徒、サウロ(後のパウロ)を抜擢したことに起因する。
宣教の情熱に燃え、キリストを伝えようと各地で論争を展開するサウロをエルサレムの弟子たちは快く思わなかったかもしれない。クリスチャンを弾圧した前歴を懸念した人々が彼をタルソに閉じ込めたかもしれない。そのサウロを偉大な使徒パウロに育てたのはバルナバだった。バルナバが存在していなかったら、キリスト教は今日、世界的な宗教に成長していなかったかもしれない。
今日も、青年サウロのような斬新で情熱的な若者が世界中に隠れている。教会に、伝統や既成概念にこだわるあまり新しい人材を閉じ込め、抑圧する姿勢があるとすれば、それは神の奇跡を人間が制限することであり、神の国にとって大きな損失となる。信徒一人ひとりが能力に応じて奉仕を申し出られる自由で寛大な雰囲気に満ちた教会、バルナバのように優秀な人材を育て、率先して世に送り出す教会が必要だ。キリストの文化を世に広めるために、先ず我々クリスチャンから自身を再吟味することが求められる。