暑かった夏もあっという間に去って、秋もたけなわとなった。時の流れというものを感じざるをえない。昔、まだ若かったころの私は、光陰矢のごとし、というのは、歳月をあらわす枕詞にすぎないと思っていたが、昨今は実感としてうなずけるようになった。時間ほど速く過ぎ去ってゆくものはない。
日本人はどうも、時間を円型でとらえているように思われる。朝がきて夜がきてまた朝がくる。春がきて夏がきて秋がくる。ちょうど時計の針が文字盤の上をぐるぐるとまわるように、自然ははてしなくまわっているものと思っている。人間も同じように子が親となり、その子がまた親となる、というくりかえしにすぎぬと思っている。
違う。人の一生は自然の営みの一つとして、ただ宇宙の運行の一コマのような慣性で生きているのではない。
時間は単に時を刻む時計のようにはてしないものではなく、始めと終わりのはっきりした線のようなものだ。神は「わたしは初めであり、終わりである!」と宣言される。天地さえも始めがあり、滅亡の終わりがある。
名人戦に持ち時間があるように、あなたの人生にも始めがあり終わりがある。持ち時間は決まっている。人によって長短はあるかもしれないが、持ち時間はもう終わっている。一時も時間を空しく使ってはならない!
「時は縮まっている」(第一コリント七・二九)
(恵みの雨 1982年10月号掲載)
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植竹利侑(うえたけ としゆき):広島キリスト教会牧師。1931年、東京生まれ。東京聖書神学院、ヘブンリーピープル神学大学卒業。1962年から2001年まで広島刑務所教誨師。1993年、矯正事業貢献のため藍綬褒章受賞。1994年、特別養護老人ホーム「輝き」創設。著書に、「受難週のキリスト」(1981年、教会新報社)、「劣等生大歓迎」(1989年、新生運動)、「現代つじ説法」(1990年、新生宣教団)、「十字架のキリスト」(1992年、新生運動)、「十字架のことば」(1993年、マルコーシュ・パブリケーション)。