結婚
この青年なら網走教会を任せても大丈夫と思われたそうだ。網走に行こうと考えて準備していたら、教会の婦人会では、待つから結婚して来て頂きたいとのことだった。猫の子だって三万も五万もする。人のお嬢さんと結婚するのにお金がない。一生共に過ごす人がそう簡単に見つかるはずもない。困り果てて本部に寄って男子の方と一緒に一時派遣させて頂こうと思った。
また、辞令を頂いておこうと思い、その後、長野の郷里に寄って様子を見ようと考えた。
田端の駅に降りて歩いていたところ、名古屋の毛戸先生と逢った。立ち話であったが、結婚のことだった。「池本頼子さんを紹介したいこと。私の所に来て奉仕して下さったこともあったが謙虚で、無駄使いをしない、質素なタイプなので工藤に推薦できる」とのことだった。私はその場で承諾した。
先生は頼子の父の了解を取り、その後、上田に行って下さった。頼子は上田市の教会に副牧師として遣わされて五年目を過ぎ、新しく任命を受けて佐藤正一先生のもとで奉仕することになっていた。先生にも教会員にも愛され慕われていた。
神様は不思議なことをなさる。田端で毛戸先生とお逢いしたその少し前に常磐線土浦で頼子が電車に乗ってきて、上野まで鹿児島で書いてもらったサイン帖を見てもらったばかりだった。羽鳥の聖書学院から佐藤春巳兄と一緒だった。根本の教会の林田先生が交通事故で土浦の病院に入院しているので見舞いに行くと土浦で下車した。
彼が下車したその席に頼子が乗ってきた。頼子の母が四八歳で召され数年のこと、甘田の実家に寄って上田に行く途中だった。
毛戸先生は頼子の父池本金三郎の許しをいただき理事会の許可を得て、上田に行き上田の佐藤先生の了解を取って下さった。頼子は了承したもののその夜眠れなかったようだ。仲人は初見司郎先生ご夫妻にお願いした。
司式は、私の修養生の時、学院長をされた小林廉直先生にして頂き、会場は大久保教会に決まった。おそらく三鷹で牧師をしていた父の配慮であったと思う。一週間後に結婚式の予定が少し延期になり四月二五日と決まった。報告を兼ねて大町に行くことになった。
姉と義兄に結婚のことを話した。喜んでくれて三万円出してくれた。これは大いに助かった。
「フクカッテアゲル、ナゴヤマワレケド」と電報を頂いた。電文の解読に時間がかかったが、結婚式のために式服を買ってくださる愛に溢れた先生の気持ちが伝わってきた。
信濃大町から名古屋回りで茨城県の聖書学院までの切符を買い、名古屋に向かった。十年前、高校を卒業して名古屋に就職した頃を思い出した。父の突然の死、悲しみを背負って名古屋に行ったあの朝。あれから、十年が過ぎ去った。四年間の、新三菱重工勤務、献身して学院三年の訓練と学び、学院で一年間職員と羽鳥教会副牧師をした。
鹿児島の開拓伝道二年間、そして今結婚し北海道の東の網走に行こうとしている。神様の不思議な御手を覚える。父なる神は、さまざまなミスを許し包み用いようとしていて下さる。ロバの子にお乗りなさった主イエスは私を必要とされ「主がお入り用なのです」と語りかけて下さる。名古屋の先生ご夫妻をはじめ教会員にどんなに沢山祈って頂いたことか。先生に黒の式服上下買って頂いた。子どもさんもおり沢山費用がいるのに申し訳ない。
東京に戻って三鷹の教会に寄った。頼子と正式に挨拶を交わした。頼子の父が革表紙の聖歌を二冊買ってきてくれた。指輪の代わりに聖歌の交換をした。
「もしあなたがたのうち二人が、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天に居られるわたしの父は、それをかなえてくださいます」マタイ十八章一九節を聖歌に記し、池本頼子様と付け加えた。
もう一冊の聖歌には「私たちは、この宝を土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」コリント第二、四章七節と、記されていた。
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