「受けるよりは与えるほうが幸いである。」(使徒20:35)
「求めること」のすばらしさを学びましたが、今回は「与えること」のすばらしさを考えてみましょう。
「受けるよりも与えるほうが幸いである。」と、イエス・キリストは教えました。
インドにとても有名な用水作りの名人がいました。彼の作る用水路は、どんな日照りの時も、豊かな水量があったので、彼の田は毎年豊かな実りで大収穫の連続でした。
そればかりか、彼の回りの田も毎年大豊作だったのです。そこで、この男は考えました。“俺の作った用水路の水で、他人の田が潤されて豊作になってはおもしろくない。そうだ、今年は……”男は腕を奮って、自分の田だけに水が行くように用水路を作り、他の田には少しも水が流れないようにしてしまいました。
結果、どうなったでしょうか。彼の田は泥地になってしまい、収穫はゼロでした。自分のことだけを考えて、他人のことを考えないとこうなるのです。
パレスチナには、二つの大きな湖があります。一つはガリラヤ湖で、地中海海面下二一一メートルにある淡水湖です。丘陵の緑が青い水面に映え、パレスチナで最も美しい景観です。春には華やかに色づいた斜面が美しく輝き、遠くヘルモン山の白雪が見えます。そして何よりも、淡水魚の宝庫で、一説によると一五三匹の魚がいると言われます。
もう一つの湖は、塩の海、別名は死海です。この湖の水面は地中海海面より約三九六メートルも低く、世界で一番低い水面です。ヨルダン川から注ぐ水が死海に入ると、水分の蒸発が激しい上に流れ出る川がないので、塩分だけが残ります。そして周辺には草も木も育たず、ただ岩塩の山と荒れ地だけです。湖の中には、魚は一匹も生息できず、文字通り塩の海、死の海なのです。
ガリラヤ湖と死海の違いは何でしょうか。ガリラヤ湖はヘルモン山の雪解け水を受けて潤い、その流れはヨルダン川となって死海に注ぎます。言葉を変えると、与えられて与え出しているので、いつも新鮮なのです。
死海は、ヨルダン川から注がれる水を受けるだけで、その流れを注ぐ場所がなく、受けた水は蒸発し塩分だけが残るのです。
人生も全く同じです。受けるだけで与えることを知らない人は、干からびて行きます。どんなにお金があり、社会的地位や名誉を持っていても、潤いのない日々を過ごし、遂には墓へ行ってしまうのです。しかし、ガリラヤ湖のような人生もまたあります。自分も潤され、周りの人々を潤す人生、それこそほんとうに幸福な、幸せに満ちた人生です。
それでは、具体的にどのようなものを与えることができるのか、考えてみましょう。
第一に、愛を与えることができます。
人間は愛がなければ生きて行くことができません。人間にとって、生きることは愛することであり、愛されることです。"To live is to love......"人間はみな孤独なのです。人間の心の一番奥底にある欲望は、愛されたいという欲望です。愛される限りにおいて、人は人間として存在している実感を持つのです。あなたは愛されることだけを求めてはいませんか。本当は愛する時、あなたも愛されるのです。要求し合う人間関係からは、温かさも愛情も生まれて来ません。求め合うだけですと、塩の海のように死んでしまいます。
でも、“私はあなたを愛します”と言う言葉に、二つの意味があることを知ることが大切です。一つは、“私はあなたが欲しい、あなたが必要だ”という意味です。もう一つは、“私はあなたを幸せにしてあげたい、あなたのことを気遣っている”という意味です。一番目の愛の意味は、自分のために何か良いものがほしいのです。「愛は惜しみなく奪う」という言葉が、それを上手に表現しています。奪うものがなくなったら、サヨウナラしてしまう愛なのです。しかし、二番目の意味は、相手に何か良いものを与えたいのです。「愛は惜しみなく与える」のです。一口に愛するといっても、二つの意味が混同されやすいので、ギリシャ語では、“奪う愛”を「エロスの愛」“与える愛”を「アガペの愛」といいます。
では愛を与えるとは、具体的にどういうことでしょうか。
愛を与えるとは、相手をあるがままに受け入れることです。
相手を受け入れることは、あらゆる人間関係の秘訣です。
愛を与えるとは、相手を理解することです。
あなたが相手をどのくらい愛しているかを、時計で計ることができます。それは本当です。人は愛しているものに時間をかけるものです。人の心のある所には、時間もあるのです。あなたはいかがですか。愛する子供たちと遊ぶ時間を持っていますか。妻と語る時間はいかがですか。あなたの愛のある所に時間があるのです。人を理解するためには、どうしても忍耐と時間が必要です。
愛を与えることは、見ることです。愛する人は必ず見ています。
子供を愛している母親は、絶えず子供をよく見ているので、ちょっとした変化にもすぐ気付きます。愛は見ています。自分の妻の髪型が変わったり、新しい花が活けてあるのに気が付かないなら、それは妻に対する愛が足りないからなのです。
愛を与えることは聴くことです。
愛は耳を傾け、愛する者の話を聞きます。人間には一つの口と二つの耳があるのは、話すことの二倍聴くためなのです。
愛を与えることは、相手に伝えることです。
相手の必要としていることが何かわかると、それを何とかしようとします。愛は机上の空論ではなく、実践的です。“もしある婦人が、自分は花を愛するといいながら、水をやるのを忘れているなら、私は彼女の花に対する愛情を疑ってしまう。愛とは、自分の愛しているものの命や、その成長に対する思いやりを行動によって現わすものである”と、エリック・フロムは書いています。
愛は自分自身を与えることです。
愛の最も深い形は、自分の体また心を直接人に与えることです。最高の愛を、イエス・キリストはこのように語り、自ら実行されました。
「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)
第二に、他人に成功を与えることができます。
言葉を変えると、他人の成功に手を貸すことです。人生で成功する秘訣は、何かをやり遂げることです。そのためには、三つの方法があります。
a.自分自身ですることです。
b.人の手を借りることです。
c.人に手を貸すことです。
自分自身ですることは、良いやり方ですが、一人でできることには限りがあります。すばらしい成功を成し遂げた人々は、多くの場合、ほかの人の協力で目的を達成しています。人に手を貸すことは、あなたを与えることです。ほかの人の仕事を手伝えば、自分の業績を上げ、成功するということです。
それではどのようにして、他の人に手を貸すのでしょうか。自分自身の利益だけを目的にして、人に手を貸してはいけません。自分のために尽力させようという下心で、人に手を貸すのもだめです。目をかけてもらいたいばかりに、人に手を貸してもいけません。愛から出る行為のみが、誠実なあなたの与える心となってほとばしるのです。不純なものが混じらないように気を付けることです。
だれに対しても、将来きっと成功すると期待してみましょう。期待を与えるのです。期待通りの結果が必ず現われます。
作家の三浦綾子さんのご主人三浦光世さんは、実に偉大な愛の人です。三浦綾子さんが結核で臥せっていた時、結婚の約束をしました。そして退院するまで待ち、退院した後も体が弱く普通の夫婦生活もできない状態でした。しかしご主人は愛を持って励まし、いつも良い理解を与えました。そして、朝日新聞の一千万円懸賞小説を書くよう動機づけました。“氷点”で一躍売れっ子になった綾子さんの背後で祈り、支え続けたご主人の愛は、すばらしい感動を与えます。綾子さんは直腸ガンを宣告されましたが、光世さんは、命を注ぎ出して創作活動を続ける彼女の口述筆記をしたばかりでなく、毎日一時間余りのマッサージを欠かしたことがありませんでした。
お二人のすばらしい生き様は、与える愛とは人の成功に手を貸すことだと痛感させます。夫婦だからこそと言う人もいますが、夫婦だからこそ、お互いの成長のために与え合わなければならないのです。
第三に、もう一つ与えるものがあります。それはだれでも持っているもの、持つことができるもの、ほほえみです。
今、日本人の顔が暗く険しくなって来たとよく言われます。試しに、繁華街やデパートで、あなたの職場で、人々を観察してごらんなさい。みんなの顔には全くと言ってよいほど、ほほえみがありません。笑顔にはつきもののあのさわやかな風情、溢れるような活気がありません。商売用の笑顔や、ビジネス用の取ってつけた笑いではなく、心の底から込み上げるほほえみが必要です。あなたは今日から、ほほえみを与えることができます。
水野源三さんは、一九三七年一月二日に長野県の坂城町に生まれました。源三さんは五人兄弟の中では、一番元気で成績の良い少年でしたが、小学校四年生の時、集団赤痢が発生し、三週間も高熱にうなされました。悪いことに余病を併発して、なお四十二度の高熱が続き、かろうじて一命だけは取りとめましたが、脳膜炎による麻痺のため、身体の自由を全く失って、言葉すら口にできない重傷の身となりました。
ところが四年ほどたった頃、一人の牧師が水野さんの身の上を聞き、一冊の聖書を置いて帰りました。これが源三さんの生涯に道を開き、今まで考えてみることのできなかった命の道となったのです。その直後、源三さんは少しばかりの瞬きができるようになり、お母さんはそれを手がかりに、あいうえお五十音図表を用いて、自分の意志を言葉で表現することに成功しました。水野源三さんは手足の自由を奪われ、六畳一間に三十数年、寝たっきりの人生でしたが、あいうえお五十音表を、瞬きで追い、お母さんと二人三脚で作った詩が六千を超えます。その詩は三冊の詩集となって、多くの人に感銘を与えています。
水野源三さんに会った人たちは、その凄まじい人生と共に、そのほほえみを忘れることができません。源三さんは歩くことも語ることもできません。しかし、生きていることの感謝を込めて精一杯ほほえむのです。そのほほえみは悲しむ人を慰め、それだけ多くの人を勇気づけたことでしょう。
有難う
物が言えない私は
有難うのかわりにほほえむ
朝から何回もほほえむ
苦しいときも、悲しいときも
心からほほえむ
(水野源三詩集“わか恵み汝に足れり”)
ほほえみは、あなたの内にある喜びが、心の奥底から湧きあがってくるものです。でもそれを上手に表現することも大切です。朝、起きるとすぐ、あなたの顔を鏡に映して、にっこりほほえんで下さい。家族と顔を合わせたら、にっこりとほほえむのです。道ですれちがう人にも、会社で最初に出会う人にも……きっとあなたの一日は、すばらしいものとなるでしょう。そして、あなたからほほえみを与えられた人々も、幸せで胸がふくらむはずです。
ほほえみと共に、挨拶を与えることはすばらしいことです。明るい人間関係を築く第一歩は、さわやかな挨拶です。挨拶は先手を打ってすることです。明るい声(ソ音の高さで声を出すと明るくなります)明るい態度と表情で、そして花を添えて(今日も、お元気そうですね。ネクタイのセンスとても素敵ですね。とても嬉しそうですね。何か良いことがあったんでしょう。等)挨拶されるのは、気持ちのいいものです。
その他にも、あなたが与えることのできるものがたくさんあります。ゆるしを与えることも、とても大事なことです。信用と信頼を与えることができます。必要なら、実際的な手助け、例えばお金を与えることも、必要な場合があるでしょう。
このように、あなたが他人にその人の望むものを与えれば、彼らはあなたにあなたの望むものを与えてくれます。
人生普遍の原則は、人は与えたものだけを得るということです。蒔いたものだけを刈り取るのです。何とも拍子抜けするような、単純なことです。しかし、これが原則です。ルールです。普通のルールではなく、ゴールデン・ルール(黄金率)なのです。
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」(マタイ7:12)
「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。」(ルカ6:38)
あなたもきっと他人から必要とされたい、望まれたい、愛されたいと願っています。あなたはきっと、誰かにとって重要な存在でありたいと願っています。他人から評価され、満足され、受け入れられることをあなたも必要としています。樫の木は、どんなに大樹になっても、一日たりとも土と空気と水を必要としなくなる日はありません。それと同じことです。私も人から認められたい、人に受け入れられたいと正直願っています。わたしは未だに、人から誉められれば嬉しいし、批判されたり、拒絶されれば意気消沈してしまいます。私も温かく歓迎してくれる目とほほえみ溢れる顔に出会いたいのです。
ですから、ゴールデン・ルールを少しずつでも実行しています。
「与えなさい。そうすれば、自分にも与えられます。」
それは真実です。他人に与えるべきものは何か、それがもう良くわかったと思います。それはあなた自身の中にある感情に一番近いものを、与えることです。自分の中にある計測器に従う時、ほとんど正しいものを与えることになるでしょう。先ずあなたが、他人に望んでいるものを与えるのです。そうすれば、彼らはあなたの望むものを与えてくれるでしょう。逆に考えないように気をつけて下さい。
世界はあなたに豊かに与えようとして、待ち構えています。
さあ、豊かで幸福感に満ちた幸せは、今日からあなたのものです。
榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書「輝き・可能性への変身」(2000年、プレイズ出版)は、同師が「ラジオ番組 希望の声」シリーズとして出版したもの。机上の空論ではなく、著者自身がその生涯において実現し、今も継続している生きた証しを紹介している。