桜の時期も終わり、昼間の日差しが暖かく感じられる季節になりました。所々で地面に咲いている芝桜は、その彩も美しく、まるでそこだけ春色のカーペットが敷き詰められているようです。春はゆっくり自然を目覚めさせ、生き物たちが持っている生命の力強さを感じさせてくれます。
春になって新しい生活が、スタートした人も沢山いると思います。少しずつ慣れて行く新しい環境の中で、今までとは違った多くの出会いがあることでしょう。どうぞ大きな希望を胸に、毎日の生活を実り多いものにして下さい。これからも皆様の生活が神様に支えられ、充実した毎日となりますようにお祈りしています。
新しい生活に少し戸惑っている人達のことを思い、陰ながら応援している私ですが、私自身の生活には特に変化がなく、毎日平凡に過ごしています。そんな私も暇を見つけては、本などで紹介されているストレッチで「肉体改造」をして、新しい自分を作り出そうとしているのですけれど、若いころに比べ代謝が落ちている今では、その成果が表れるまでにはかなりの辛抱が必要なのです。(ここで涙の絵文字でも入れたい気分です)。これを日本語では、「年寄りの冷や水」と言うのでしょうか? けれども何かを目指して、頑張っている私は偉いと思います!と誰も褒めてはくれないので、自分で自分を励ましています。
このように毎日同じ生活をしている私ですから、たくさんの人に出会う機会もそれ程多くはないのですが、これからも一つ一つの出会いを大切にして行きたいと感じています。たとえその出会いの幾つかは、一度限りのものであったとしても、お互いにとって貴重な時間を共有したいと思っています。ですから、新しく出会った人に対しても物怖じせずに、思いやりの心が表せたならと思うのです。ほとんどの人は誰かから感謝されたなら、とても幸せな気分になります。思いがけない人から感謝された時に私は、イエス様との出会いを感じることがあります。なぜなら、弟子たちがイエス様に終わりの日が来る時のことを質問した時、『わたしの兄弟である最も小さいものの一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』と話されていた場面を思い出すからです。私たちはそれぞれの出会いから、多くのことを学ぶことができます。そして、その度に私たちの信仰も試されている気がします。人に親切にすることは、決して難しいことではありません。なぜなら、その人のためにしてあげたいと思うことを行えばよいのですから。けれども、その勇気が湧かない時もあります。こちらが好意的に接したにもかかわらず、その思いが受け止められない経験をしたことがある人も、たくさんいるのではないのでしょうか。
私はドイツでの最初の3カ月間を、ボン郊外の山の上の小さな村で、友人のドイツ人の家族と暮らしていました。この村で過ごしていた頃は、Das Wohnzimmer(リビング)から毎日素晴らしい景色を眺めることができました。そして、その窓からの景色を眺めては毎朝深呼吸するのが私の日課になっていました。そんな私の様子を見ながら、私がお世話になっていたドイツの Die Mutti(ママ)は「ここからの山の景色も空の様子も、毎日違っているのよ」と話してくれました。彼女はそう話して、自然は常に変化していて、再び同じ様子を見ることはできない、ということを私に教えてくれました。
人間も自然界で生きる存在であって、またそれと同時に絶えず変化しているのです。ですから、人の気持ちがいつも同じということはないのです。もしこちらの誠意が、その時には伝わっていなかったように思えても、その人のためと思ってしたことが本当に正しいことであったなら、そしてまた神様が望まれたことであれば、きっとその人の心は変えられて行くことでしょう。そして、その時に触れた優しさは、決して心から離れて行くことはないでしょう。
伝えられて行く信仰は、優しさの中から生まれてくるものだと思います。そして、そのような心の触れ合いは、生きる喜びをももたらしてくれると思います。生きる喜び、そして生きる勇気は、信仰によって永遠に伝えて行けるものだと思うのです。
20代後半をドイツで過ごした私は、帰国後日本での生活になかなか馴染めず、暫くの間戸惑ってばかりいました。けれども最近は、積極的に人の輪の中に入るようにしています。今までの受け身の姿勢から、相手のところまで近寄って話を聞く側へと自分自身を変えてみました。そうしているうちに、相手との会話によって様々なことに気付かされ、その人のことがより良く理解でき、これまでよりも楽しい時間がたくさん与えられるようになりました。神様は、このような私の心を再び目覚めさせて下さったのです。
これからも、どうぞ何気無い出会いを大切にして下さい。なぜなら、その出会いの中で既にイエス様と出会っているかもしれないのですから。
【by Tokyoterin - 東京在住の女性クリスチャン】