はじめに
「すごい映画が日本に来た」が第一印象。うつむきながら足早に試写会会場を出ました。会場には数人の知人がいましたが、誰の顔も見たくなかったし、ことばを交わしたくもありませんでした。痛みと悲しみのともなった感動を乱したくなかったからです。涙で赤くなった目頭を誰にも見せたくなかったのかもしれません。その映画とは『パッション』でした。「パッション」とは、キリストの受難のことです。
この映画は米国の人気俳優であり、またアカデミー賞監督でもあるメル・ギブソンの信仰告白を映画化したと言ってもよい作品です。メル・ギブソンは、この作品の構想に、深い祈りとともに十二年もの歳月を費やしました。約二七億円の私財を投じ、死語となっているアラム語とラテン語で脚本を手掛けたのです。まさにメル・ギブソンの情熱のすべてを注いだ、渾身の衝撃作です。そして、米国成人人口の五二パーセント(二〇〇四年二月二十五日水曜公開、二〇〇四年三月三十日まで)が観たという圧倒的な強さでナンバーワンを獲得しました。
メル・ギブソンはこのように証ししています。
「人生は大変です。みんな傷ついています。私は自分の傷をいやしてもらうために、キリストの傷に近づいたのです。そして聖書を読み、黙想し、祈った時、初めてキリストがどんな方かを知りました。それは『犠牲』です。イエス・キリストが自分自身のためではなく、私のためにどんなに苦しまれたかを知った時、この方の中に希望があると思ったのです。私の傷はイエスによっていやされました。そのイエスの傷を、人々に語りたかったのです」(ディシジョン誌二〇〇四年三月号より)。
つまり、この映画はメル・ギブソンが「自分の傷をいやしてもらうために、キリストの傷に近づ」き、その「傷はイエスによっていやされ」たという経験を表現するために製作されたのであり、「傷ついています」という人々に、「その傷を」「語りたかった」ために製作されたのです。
メル・ギブソンは自分の傷について具体的に語っています。以前、彼は酒と麻薬に溺れていました。十二年前、うつ病に悩んだ末、ついに精神のバランスを崩し、自殺まで考えました。その中で彼は、かつて父親が信じていた信仰を思い出し、救いを求めました。その結果「私の傷はイエスによっていやされました」という告白に至ったのです。イエスの傷には人の傷をいやす力があると信じているからこそ、彼はイエスの傷を語りたいと願っているのです。彼は製作中、祈りと瞑想を一日も欠かしたことがなかったそうです。また、製作後は映画製作から一年間離れ、祈りと瞑想に時間を使うとも言っていますが、それほど心のこもった作品です。
二つの論争が起こっている
アメリカではこの映画について国中を巻き込んだ二つの論争が起こりました。
一つは、「反ユダヤ主義ではないか」ということ。
メルはきっぱりと「私の望みはユダヤ人を非難することではない」と答えました。彼が追求したのは歴史的、また聖書的リアリティであったことは鑑賞者の目にも明らかです。
もう一つは「暴力的過ぎないか」ということです。
これに対し、メル・ギブソンは答えて、「最も語られるべきものが未だ語られていない。凄惨なシーンを描くのも、ある一つの目的のため。キリストが我々の罪をつぐなうために味わった恐ろしい苦難を目にし、理解することで、人の心の深いところに影響を与え、希望、愛、赦しのメッセージが届けられることだ」と語ります。今までもイエス・キリストの受難を描いた偉大な作品はありました。しかし、メル・ギブソンが「最も語られるべきものが未だ語られていない」と感じたのは、イエス・キリストの受難が水増しされて、それがむしろ美化されてしまい、十字架のリアリティが伝えられていなかったからです。
キャレブ・デシャネル(撮影監督)、フランチェスコ・フリジェリ(美術デザイン)、カルロ・ジェルヴァーシ(セット担当)、マウリツィオ・ミレノッティ(衣装担当)などの世界最高のスタッフを結集した目的も、この作品を「いかにも嘘っぽい歴史大作」にしないため、「徹底したリアリティ」を追求するためでした。メイクのために一日七時間から十時間も費やさなければならなかった多忙の中でも、祈りを一日も欠かさなかった主演のジム・カヴィーゼルはこう語ります。「多くの観客が最後の復活を見る前に、その耐えがたい暴力から席を立ってしまうかもしれない。しかし、同時にたくさんの人たちが最後の最後まで席に留まり、復活の神々しさ、そこから始まる何かを感じ取ってくれることを信じている」。この二人は力強くアピールします。
「どうか、目を背けないでほしい。すべては、その受難の後に始まるのです」
平野耕一(ひらの・こういち)
1944年、東京に生まれる。東京聖書学院、デューク大学院卒業。17年間アメリカの教会で牧師を務めた後、1989年帰国。現在、東京ホライズンチャペル牧師。著書『ヤベツの祈り』他多数。
このコラムで紹介する『パッションを理解するために』(2004年、プリズム社)は、映画『パッション』についての様々な疑問に答えるべく、著者がキリストの受難について説明したもの。各シーンの該当聖句やそこに込められたメッセージなどをわかりやすく解説している。