聖書は、この世の現実から目をそむけない。ある点、聖書は『然り』と『否』のせめぎあいの記録とも言える。例えばあの出エジプトの出来事だ。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導きだした神である」という宣言が何度も、何度も繰り返される。が、しかしその『然り』をかき消すように、「こんなことは、われわれの救済ではなくて、われわれを荒れ野で滅ぼすためじゃないか」という人間の側の『否』が声を上げている。モーセにとっては他民族との直接の葛藤や戦いよりも、同胞が彼に突き付けるこの『否』の問題のほうが、はるかにプレッシャーになった。彼までが、「この民をどうすればよいのですか」と神に文句を言う始末であった(出エジプト17章4)。しかし、彼はなお神の『然り』を説教していく。そして結果的には、民が『否』と叫ぶことになる原因が除去される恵みを体験する。だがその恵みは、当面の問題の解決に止まらない。もっと基本的なところまでいく。繰り返し言われるように、それによって「わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」ということが起こるのだ(16章12etc)。どんなことがあろうとこの究極的なこと、主が主である、その主の勝利の中にわれわれがおかれている、という恵みがこうして確認されていくのである。曖昧な『然り』でなく、決定的な『然り』が、いよいよ鮮明になるとはこの事だ。こうした聖書の例からも、ますます説教が、今という現実をそのコンテクストにしていることがわかる。今を離れて説教はないのだ。でなければ、説教を聞く喜びは、『昔を知る興味』と同列のものになりかねない。あるいは牧師の知識の広さに感心するぐらいのものになってしまうだろう。
神の言葉の宣教は、この世の荒れ野にいて起こることを、聖書はいたるところで告げている。それだからこそ、『力ある』という意味が出てくるのだ。
この2月4日の新聞に、新大久保駅での日本の人を救おうとして自分の命を落とした二人の人のひとり、韓国の青年についてHang Nguyenという人が英語の詩を投稿していた。その中で、Hangさんは “as people thought a Korean would never die for a Japanese. With your death, May the wall of prejudice fall,……” 「人々は韓国の人が日本の人のために死んでくれる、などということは決してないと思っていたのにあなたの死によって、差別の壁はくずれおち……」と言い、さらにイエスの死にも触れていた。
ところがその同じ日の、同じ新聞に違法滞在をしている外国人についての日本人へのアンケートの結果の報告が掲載されていた。そこでは「強制送還するべし」という人が圧倒的に多かったのだが、なんとその64%の人が、「でも、もし違法滞在している人たちが、一般の日本人が嫌がるような、きたない、そして危険な仕事をやってくれるなら、滞在してもいいじゃないか」という返事をしたというのである。
民族を超えて、イエスの愛をそのまま示すような出来事が起こる一方で、こういう『否』が現実に存在するのだ。パウロが力説するように、こうした『否』を、福音は問題にする。またモーセは戦うのだ。そこでこそ福音が、福音の力を発揮しなければならない。この現実の中でこそ、最終的には、イエスの勝利が勝利としてあることが示され、この不透明きわまりない世界の行く手に道筋をつけなければならない。これは社会派の説教といったことと違う。説教が、旧約の預言者の説教に連帯しているということである。
◇柴田千頭男(しばた ちずお)=ルーテル学院大名誉教授、日本ルーテル教団 信仰と職制委員会委員長。