
死から再生へ
今年の冬は、厳しい寒さと大雪が日本の各地を襲いました。野山の木々は枯れたかのように見えて、殺風景となりました。けれども春が来ると、暖かい風が吹き、野山の木々は生気を取り戻して、葉を茂らせ、美しい花を開きました。死から再生する自然界のドラマを見た感があります。
人生はよく春夏秋冬に例えられます。たとえ大輪の花を咲かせ、豊かに実を結んだとしても、人生の冬を迎え、死という問題に直面することは、誰もが避けられない現実です。死は全ての人が共有する究極の問題です。この問題に決定的な解決を与えることができるのは、イエス・キリストだけです(イエスは個人名、キリストは救世主の意)。なぜでしょうか。それは、イエス・キリストだけが、完全に死んだ後に復活したお方だからです。
臨死体験をした人たちの話をしばしば見聞きしますが、臨死体験は完全な死の体験ではありません。肉体が元の状態に蘇生したのであれば、完全に死んではいないのです。臨死体験者はいつか完全に死ぬ時を迎えます。それに対してイエス・キリストは、西暦30年の春にエルサレムのゴルゴタの丘で十字架にかけられ、完全に死んだのです。
聖書にこう記されています。
イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。・・・兵士の一人は、イエスの脇腹を槍(やり)で突き刺した。すると、すぐに血と水が出て来た。(ヨハネの福音書19章30、34節)
人間の肉体は20パーセント以上の水分を失うと、生命を維持できず、死に至るそうです。イエス・キリストは確かに完全に死にました。そして、もはや死ぬことがない永遠の体に変わって、よみがえったのです。それは確かに、手と脇腹に傷跡が残るイエスの体であり、焼いた魚を食べることができたのですが、物理的に制限されない体でした(ヨハネの福音書20章20節、ルカの福音書24章41~43節)。
陰府とは何か
そもそも死とは何でしょうか。聖書が定義する死とは、霊魂が肉体から完全に分離することです。神は〈大地のちり〉で人体を形造り、その鼻に〈いのちの息〉を吹き込みました。それで人は〈生きるもの〉となりました(創世記2章7節)。〈塵(ちり)は元の土に返り、息吹は、これを授けられた神のもとに帰る〉(フランシスコ会訳、コヘレト12章7節)。これが死です。
では、肉体が死んだとき、「私」という意識はどうなるのでしょうか。これについては、主イエスが例え話を用いて、具体的に教えています。
ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。
金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。金持ちは叫んで言った。「父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。」
するとアブラハムは言った。「子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。」(ルカの福音書16章19~31節)
神に「義」と認められた人の霊は、いわゆる天国に受け入れてもらえます。しかし、神に拒絶された人の霊は「ハデス」いわゆる「陰府(よみ)」に行きます。ただし、陰府にはいろいろな場所があって、必ずしも火炎などによる刑罰を受けるわけではない、という見解もあります。陰府は、最後の審判が行われるまで存在する中間状態の場です。陰府を支配しているのは、サタン(悪魔)と彼に従う堕天使たち(悪霊たち)です。
主イエスはこう仰せになりました。
わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。(マタイの福音書16章18節)
この「門」と訳されているギリシャ語の原語は複数形です。陰府は城砦(じょうさい)のような所であり、サタンに従う堕天使たちの諸々の軍団が、陰府の各部署を支配し、死んだ人々の霊を捕らえているのです。
イエス・キリストの「陰府帰り」
イエス・キリストは十字架上で死んだ後、霊において陰府に降り、そこに囚われている人々に宣教しました。勝利の宣言です。
キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。(ペテロの手紙第一3章18~19節)
死んだ人々にも福音が宣(の)べ伝えられていたのです。彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。(ペテロの手紙第一4章6節)
聖書が説く「罪」とは、神の律法に違反することです(ヨハネの手紙第一3章4節)。聖書の神を知らない人も含めて、全ての人の心に神の律法が記されています(ローマ人への手紙2章14~15節)。それ故、人は罪を犯したときに、良心の呵責(かしゃく)を感じるのです。
人が神の律法に違反して犯した「罪」は、神に対する「負債」となっています。〈罪の報酬は死です〉(ローマ人への手紙6章23節)。それは肉体の死ばかりでなく、永遠に神との交わりが絶たれる霊的な死をも意味します。サタンと堕天使たちは債務証書すなわち罪のリストを根拠として、死んだ人々の霊を陰府に閉じ込めているのです。神の御子イエスが人間となって地上に降り、さらに陰府にまで降られたのは、このような悪魔のわざを打ち破って、人類を救うためでした(へブル人への手紙2章14~15節、ヨハネの手紙第一3章8節)。
背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。私たちのすべての背きを赦(ゆる)し、私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋(がいせん)の行列に捕虜として加えて、さらしものにされました。(コロサイ人への手紙2章13~15節)
イエス・キリストは十字架で、私たちの身代わりとしてご自身を犠牲(いけにえ)とされました。その支払われた代価によって、私たちの罪は赦され、「債務証書」が無効となりました。そしてイエス・キリストは陰府で「支配」や「権威」などと呼ばれる堕天使たちを征服し、彼らを捕虜として従えて、天に凱旋されたのです(エペソ人への手紙4章8節)。このイエス・キリストの勝利は、現代に生きる私たちをも救うものです。イエス・キリストの「陰府帰り」を共に喜び、この大いなる救いを世界中の人々に伝えましょう!
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