
ウクライナでの戦争を終わらせようとするドナルド・トランプ米大統領の努力は、西側諸国の意見を大きく二分している。
一方では、トランプ政権は、前政権と異なり、ウクライナが戦い続けられるよう、政治的、財政的、軍事的支援を無制限に提供するのではなく、ウクライナとロシアの間に平和をもたらすことで、そのような支援を不要にしようとしているとして、その努力を称賛する意見がある。
他方では、トランプ政権は、ロシアとウクライナの戦争に終止符を打つかもしれないが、ロシアの侵略行為を助長し、ウクライナの独立を損なう恐れがあるとして、その方法を批判する意見もある。
本稿では、ウクライナ戦争の終結に向けた現在の取り組みを評価する際に念頭に置くべきキリスト教の諸原則に目を向けることで、この二極化した議論にキリスト教的な視点を取り入れてみたい。
第一の原則は、「戦争の目標は平和の達成であるべきだ」というものだ。この点は、初期のキリスト教神学者アウグスティヌスが、キリスト教徒として兵士であり続けることが可能かどうかを知りたがっていたローマ帝国の将軍ボニファティウスに宛てた手紙の中で述べたことが有名だ。アウグスティヌスの答えは「イエス」であったが、そこには重要な注意書きが添えられている。
「平和こそがあなたの望むべきものであり、戦争はあくまでも必要に迫られてのみ行われるべきであり、神が戦争によって人々をその必要から救い、平和のうちに保ってくださるためにのみ行われるべきです。なぜなら、平和は戦争をかき立てるために求められるものではなく、戦争は平和を得るために行われるものだからです。それ故、戦争を行う際にも平和の実現を目指す精神を大切にし、攻撃相手を征圧することで、彼らを平和の恩恵へと導くべきです。なぜなら、私たちの主はこう言われるからです。『平和を造る人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる』(マタイによる福音書5章9節)」
この第一の原則に照らせば、ウクライナの平和を望むトランプ政権の狙いは正当となる。ウクライナの現在の戦争から、唯一望ましい結果がもたらされるとすれば、それは平和の達成だからだ。しかし、このトランプ政権のアプローチに対する評価は、次のキリスト教の第二の原則を考慮に入れると、より複雑になる。
第二の原則とは、「戦争は、正義に基づく平和のために、世俗的な支配者の権力の下で行われるべき戦いである」というものだ。これは言い換えれば、悪人が罪のない人々に害を加えるのを防ぐべく、神から与えられた剣の力を行使することが行政官に求められるとする原則だ(ローマの信徒への手紙13章4節)。この観点から見ると、16世紀のドイツの宗教改革者マルティン・ルターが以下に述べたように、戦争の遂行は、医師の行為に匹敵する「愛の業」と見なすことができる。
「優秀な医師は、時に体を救うため、手足、耳、目の切断や破壊をしなければならないほど深刻で恐ろしい病状を見つけることがあります。切断する器官の観点から見ると、彼は残酷で情け容赦のない人間に見えます。しかし、医師が救おうとしている体から見ると、彼は立派で誠実な人間であり、その行為自体は善で、キリスト教的です。同様に、悪人を罰し、殺し、多くの不幸を生み出すことで職務を全うする兵士について考えると、それはキリスト教の愛とは全く相反する、反キリスト教的行為のように思えます」
「しかし、善人を守り、妻や子、家や畑、財産、名誉、平和を守り維持する者だと考えると、この仕事がどれほど貴く神聖であるかが分かります。それは、全身が滅びないように、剣が足を切断したり、手を切断したりしているのです。もしも剣が、平和を守るために備えられていなければ、この世の全てが平和の欠如により滅びてしまうでしょう。従って、そのような戦争は、永遠で計り知れない平和の欠如を防ぐごく短期間の平和の欠如に過ぎず、大きな不幸を防ぐ小さな不幸なのです」
「人々が言うように、戦争が大きな災いであるというのは全く真実です。しかし、戦争が防いでいる災いがどれほど大きいかも考慮されるべきです。もし人々が善良で平和を維持しようとするのであれば、戦争は地球上で最大の災厄であるでしょう。しかし、人々が平和を維持しようとせず、略奪、窃盗、殺人、女性や子どもへの暴行、財産や名誉の奪取を行うという事実に対して、あなたはどうしますか。戦争や剣と呼ばれる小さな平和の欠如は、全ての人々を滅ぼすこの普遍的で全世界的な平和の欠如に対して歯止めをかけるものなのです」
この第二の原則が、トランプ政権のアプローチに対する評価を複雑にするのは、彼らが提示している平和が正義に基づく平和かどうか、という点で疑問を生じさせるためだ。もしトランプ政権がウクライナに圧力をかけ、現在ロシアが出している条件に従い和平合意をさせれば、確かに戦争は終結するだろう。しかし冒頭で指摘したように、ロシアがその侵略行為の恩恵を受け、ウクライナはその独立を損なうことになるだろう。従って、トランプ政権の批判者らはこのような平和を不当なものとしている。
このような批判者らは、ウクライナが2014年以降にロシアに奪われた全ての領土の回復と、そもそも戦争を始めたロシア(少なくともその指導者)への処罰を含む、公正な平和が実現するまで戦い続けることができるよう、ウクライナを支援すべきだと主張する。しかしこれに反対する人々は、次の第三の原則を持ち出すだろう。
第三の原則とは、「正義が実現する現実的な見込みがない場合、無意味な戦争を続けるより、交渉に備えるべきであり、それはより小さい悪だからだ」というものだ。
例えば、現代の米国の神学者であるラスティ・レノ氏は最近、「ウクライナにおける正義の戦争の原則」(英語)と題する記事(2月28日付)で次のように述べている。
「目的が達成できない場合、その目的がどんなに正義に適うものであっても、戦争という暴力を振るうことは不道徳です。ウクライナ軍は勝利を収めることで戦闘を終結させることができません。西側諸国は十分な戦力と決意をもって戦いに参加する意志がありません。これらは議論の余地のない事実であるように思われます」
「道徳的な推論は、現実を直視しなければなりません。トランプ氏の考え方は、正義の戦争という理論の枠組みからはかけ離れています。しかし、彼は現実を直視し、勝利の見込みのない戦争を終わらせるために必要な措置を取っています。この2年間の実りのない戦闘で息子を亡くした多くの父親や母親たちは、サウジアラビアでの交渉が2023年に行われていればよかったのにと思ったことでしょう」
レノ氏が指摘する点についての歴史的な好例は、1940年3月にフィンランド政府が下した、ソ連が提示した和平条件への同意だ。ソ連は侵略者であり、その提示した条件にはフィンランドの東カレリア地方とその他の領土、およびビープリ市の割譲が含まれていた。これは、50万人のフィンランド人(当時のフィンランド人口の12パーセント)が家を失うことを意味したが、フィンランド軍最高司令官のマンネルヘイムが政府に「フィンランド軍がまだ戦えるうちに和平交渉を行うべきだ」と伝えたため、フィンランドは不当な条件を受け入れた。マンネルヘイムは次のように述べた。
「私は、厳しい条件に苦しむあまり判断力を失うべきではないと彼らに伝えました。軍は敗北したわけではありません。だから、和平交渉のチャンスがあるのです。もし軍事的惨敗が起こってしまえば、そのチャンスは失われてしまうでしょう」
この第三の原則が意味するのは、政治的責任者は、正義の戦争がその目的を現実的に達成できるかどうかについて、慎重に判断しなければならないということだ。この問いに対する答えが「ノー」である場合、たとえ耐え難いほど苦しいとしても、可能な最善の条件で戦争を終結させることを目指さなければならない。ウクライナ戦争におけるこの問いへの答えは、以下の2点に対する回答によって決まるだろう。
a)ウクライナが十分な外的支援を受ければ、長期的に勝利できるか。
b)その支援を得られると期待できるか。
これらの問いに対する答えが両方とも「イエス」ならば、キリスト教の諸原則に照らして、戦争を継続することが正しいといえるだろう。しかし、もしもどちらかの答えが「ノー」ならば、ウクライナは、達成できる最善の条件で平和を求める必要があるだろう。
ウクライナがこのような倫理的判断を下すためには、西側諸国が実際に提供できる、あるいは提供する意志のある支援の規模について、現実的になる必要がある。例えば、欧州の指導者たちがウクライナを支援すると表明することは、一見良いことのように見えるが、もしも現実に効果的な支援を提供できないのであれば、ウクライナに戦い続けるよう促すことは、キリスト教的観点からすると非常に不道徳だ。
一方、この停戦は不条理な結末という痛みを伴う。米国のフォトジャーナリストであるカール・マイダンス氏は、ソ連との和平締結後にフィンランドの大佐と遭遇したときの様子を、次のように印象的に描いている。
「『君は米国人か』 彼ははっきりとした英語で尋ねた。私がうなずくと、他の2人のフィンランド人将校は目をそらした。大佐は再びあごをかき始めた。『少なくとも君は米国の人々に、われわれが勇敢に戦ったと伝えてくれるだろう』 私は胸が締め付けられる思いがした。私は、そのつもりだと小声で言った。大佐は慎重にカミソリを拭き、タオルで体を拭いた。彼は頬を切っており、そこには小さな血の塊ができていた。それを手当てすると、彼はチュニックのボタンをかけ始めた。私は、大佐の手が震えていることに気付いた。突然、彼は苦悩に顔を歪めて、私の顔をのぞき込んだ。彼はかすれた小さな声で話し始めた」
「『貴国は(われわれを)助けるつもりだった・・・』 そして、大きな声でこう続けた。『あなたがたは約束し、われわれはあなたがたを信じた・・・』 そして、彼は私の肩をつかんで、指を食い込ませ、叫んだ。『われわれがあなたがたから得たのは、スペアパーツもない、ろくでもないブリュースター戦闘機6機だけだ! それに英国は、動かない旧式の銃を送りつけてきた!』 他のフィンランド人は背を向けて、恥ずかしそうに服を着終えた。列車はガタガタと駅に入っていった。大佐は両手を落とし、寝台に倒れ込み、激しく泣いた」
キリスト教の倫理からすれば、なすべきことは、マイダンス氏が描写したような悲劇的な状況の繰り返しを避けるか(すなわち、ウクライナがロシアを打ち負かすために必要な支援を与えるか)、あるいは、できるだけ早く和平を結ぶよう促すかのどちらかだ。無意味な戦争の引き延ばしは、最も非道徳的な決断だ。
◇
マーティン・デイビー(Martin Davie)
英国国教会(聖公会)の神学者。英国国教会福音主義評議会(CEEC)とオックスフォード国民生活宗教センター(OCRPL)の神学コンサルタント。英オックスフォード大学ウィクリフ・ホールのアソシエイトチューター。