本文での聖書の引用は新改訳聖書第三版を使用し、そうでない場合は、その都度聖書訳名を表記する。ただし、聖書箇所の表記は、新改訳聖書第三版の表記を基に独自の「略語」を用いる。
見える困難に「苦しみ」を覚えるメカニズム
前回は、「苦しみ」の真の原因について述べた。それは、見える困難にあるのではなく、心を神に向けられないことにあることを述べた。しかし、実際には、人は見える困難に「苦しみ」を覚えてしまう。そこで今回は、ならばなぜ人は見える困難に「苦しみ」を覚えるのか、そのメカニズムを説明したい。それには、「人の造り」を知っておく必要がある。
「人の造り」
人とは、「体」と「魂」から成る。「体」は情報を収集し、その情報を「魂」が提供する物差しで認識する。その際、認識する場所を「精神」と呼び、この「精神」を人という。人である「精神」は、このように「体」と「魂」によって支えられている。
そして、人を支える「魂」は、大地のちりで造られた「体」に、神の「いのち」が吹き込まれたものである。「神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」(創世記2:7、新改訳2017)。そのため、「魂」が提供する物差しは「神の思い」であり、それは「精神」である人を神に向かって動かす運動を展開する。「神よ、わたしの魂はあなたを求める」(詩篇42:2、新共同訳)。その運動のおかげで認識ができ、思考することができる。この認識と思考の流れは、次のようになる。
神の「いのち」に根ざす「魂」は、神からの情報を「精神」に発信する。それを受けた「精神」は、「体」を通して世界を覗(のぞ)き込み、情報を収集する。すると「精神」は神を目指させる「魂」の運動に押され、神からの情報を基に世界の情報を統合し、そのことで神を目指そうとするので、そこに認識が起き、思考が始まる。
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以上が、簡単ではあるが「人の造り」の概略である。この概略から、人は矛盾を抱えて生きていることが分かる。
人の抱える矛盾
神の「いのち」に根ざす「魂」は神からの情報を「精神」に発信するが、その神は「永遠性」であるので、「魂」が発信する情報は「永遠性」である。それに対し、「体」が収集する世界からの情報は「有限性」であるので、「魂」が発信する「永遠性」の情報を否定するのである。例えば、「魂」は「永遠のいのち」があると言い、「体」が収集する「有限性」の情報は、そんなものはないと否定する。ここに矛盾が生じる。
ならば、その「有限性」はどこから来たのかというと、それは悪魔の仕業で人が罪を犯し、その罪に伴い入り込んだ「死」から来た。「罪によって死が入り」(ローマ5:12)。
入り込んだ「死」は滅びに向かう運動なので、人の「体」もこの世界も、滅びに向かう「有限性」にしてしまったのである。その結果、神からの情報が「永遠」はあると言っているにもかかわらず、この世界からの情報は「永遠」などないと言うようになり、人は矛盾を抱えて生きることになった。
このように、人である「精神」は矛盾を抱えて生きている。「精神」は異なる情報の間に立たされ、どっちつかずの状態になり、「不安」を覚えている。「精神」は「魂」に押され「永遠」の神を目指すも、目指す神が、「体」からの情報では全く確認できないために、目指す神に心を向けられなくなり「不安」を感じている。とはいえ、この「不安」は心の奥底での話なので(潜在意識)、その実体は見えない。そこで、人は無意識に「不安」の実体を知ろうと、「不安」の見える化を図る。
「不安」の見える化
人である「精神」は異なる情報を受け、「不安」を抱えて生きている。それは、人の心が神を向けない状態であるが、その状態は心の奥底(潜在意識)での話であるため、全く見えない(意識できない)。「不安」の実体は見えないので、処理のしようがない。
かといって、実体が見えない「不安」には耐えられないので、人は兎にも角にも無意識に、「不安」を見えるようにする。そこで人は、「不安」を見える困難に投影し、「不安」の見える化を図る。すると、「不安」の実体は困難にあると錯覚するので、困難を解決することで「不安」を処理しようとする。
実は、この「不安」の見える化が、人が意識する「苦しみ」である。そこで、ここまでの話を「苦しみ」に視点を置いて説明すると、次のようになる。
「苦しみ」の流れ
入り込んだ「死」によって誕生した「有限性」の世界は、「永遠性」の神を見えなくさせ、人の心を神に向けられないようにしてしまった。それは人を支えている、神の「いのち」に根ざす「魂」が展開する、人を神に向かって押す運動、すなわち聖霊の風に逆らっているので、この状態が「苦しみ」である。
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しかし、それは心の奥底(潜在意識)での話であるため、「苦しみ」の実体を意識することができない。ただ、漠然とした「不安」を感じるだけである。そうであっても、聖霊の風は神の方向に吹き続けているので、心を神に向けられない状態にある者にしてみると、漠然とした「不安」であろうとも耐えられない。
そこで、人は「不安」を何とかしようと、「不安」を見える困難に投影し、「不安」の見える化を図る。すると、心を神に向けられないことの実体が、心を見える困難に向けたことで具体的な姿となって現れる。そうなると、人は漠然とした「不安」を、今度は具体的に意識できるようになる。それが、人が意識する「苦しみ」である。
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要するに、「不安」を見える困難に投影すれば、それはそのまま、心を神に向けないことの具体的な実行となるので、すなわち神に向かって人を動かしている聖霊の風に逆らい、「的外れ」の方向に動き出すことになるので、そのことが意識できる具体的な「苦しみ」になる。
つまり、人が見える困難に「苦しみ」を覚えてしまうのは、「苦しみ」の原点の実体を人は意識できないので、それを意識しようと、見える困難に「苦しみ」を重ねてしまうからである。これが、見える困難に「苦しみ」を覚えるメカニズムである。
さらに言えば、心を神に向けられない状態は、聖霊の風に逆らう「的外れ」の状態なので、それを「罪」という。そこで聖書は「罪」を言い表すのに、「的外れ」を意味する「ハマルティア」[ἁμαρτία]を使っている。それ故、心を神に向けられない「罪」の状態の意識化が、「苦しみ」なのである。
このように、心を神に向けられない漠然とした「不安」(潜在意識)が「苦しみ」であり、その「不安」を具体的に見える困難に投影することで、具体的に意識できる「苦しみ」となる。従って、「苦しみ」の真の原因は、見える困難にあるのではなく、心を神に向けられないことにある。人の「苦しみ」の原点は、心を神に向けられない「罪」の状態にある。
ただし、この話は人の側から見た「苦しみ」を覚えるメカニズムの話であって、神の側から見た話ではない。大事なのは、神の側から見た話である。人は一人で生きているのではなく、土台の神と一緒に生きているので(神の「いのち」である「魂」に支えられているので)、神の側から人が覚える「苦しみ」を見ない限り、「苦しみ」の真実は分からない。
結論から言うと、人が覚える「苦しみ」は、神が覚える「苦しみ」である。そこで、続けてその話をしたい。
神が覚える「苦しみ」
「死」が入り込んで以来、人は神と分離し、心を神に向けられずに苦しんでいる。その「苦しみ」は心の奥底(潜在意識)の出来事であるため、なぜ苦しんでいるのかまでは意識できない。ただ漠然とした「不安」を感じるだけである。
しかし、意識できないからと、心を神に向けられない状態を放置すれば神との和解はなく、そのままでは人は滅んでしまう。そのため、これは非常に危険な状態である。
そこで神は、人が意識できない「苦しみ」をご自分が負い、その「苦しみ」を神が覚える「苦しみ」として人に訴える。この訴えが人の心に鳴り響く「心の声」であり、その声が、人が意識できる困難と結び付くことで、人は困難を意識できる「苦しみ」として感じ取っているのである。
従って、人が覚える「苦しみ」は、実は神が覚える「苦しみ」である。前項では、人は「不安」を何とかしようと、それを見える困難に投影すると説明したが、投影するのは、神がご自分の「苦しみ」を人に訴えておられるからである。では、なぜそのようなことになるのかを説明したい。
神がご自分の「苦しみ」を人に訴える
神がぶどうの木であれば、人はその枝である。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5)。神と人とは、連続した「一つ」の関係にある。そのため、神は当たり前のように人の「苦しみ」を知ることができ、また、それをご自身の「苦しみ」として人の心に訴えることができる。
その訴えを、人は見える困難と結び付けるときに、意識できる「苦しみ」として感じ取っている。感じ取った「苦しみ」は、まさに人に危険な状態を訴える神の叫びにほかならない。それはちょうど、体が病原菌に侵されて危険な状態になれば、体は「苦しみ」を人に訴え、人を助けようとするのと同じである。
つまり、人が苦しむときには、いつも神も「苦しみ」、その愛とあわれみによって人を贖(あがな)っておられるということである。
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。(イザヤ63:9)
この話は、がんに例えると分かりやすい。人はがんになっても最初は自覚が全くないので、その危険性を意識できない。だが、意識できなくても、細胞はがんに侵されている。そのため、意識できないからと、がんを放置すると瞬く間にそれは広がり、人ががんの苦しみを意識できるようになったときには手遅れとなる。
そこで医者は、人が意識できないがんを見つけたなら、手遅れになる前にがんの危険性を訴え、手術を勧める。無論、医者からがんの宣告を受けたなら、人はショックを受け、「苦しみ」を覚えるが、その「苦しみ」を避けては治療に臨めない。神がなさることは、この医者の宣告と全く同じである。
このように、神がぶどうの木であれば、人はその枝なので、人が心を神に向けられない「苦しみ」を、神がご自分の「苦しみ」として人に訴えるのである。人の「苦しみ」の原点は、心を神に向けられない「罪」の状態にあるが、その状態は心の奥底での話であって人には意識できないので、神が代わって訴えてくださる。
というのも、意識できないからと、心を神に向けられない状態を放置すれば、人は滅んでしまうからである。手遅れになる前に、医者ががんの宣告をするように、神は人に迫る危険を強く訴えてくださる。そのことで、心を神に向けられるように人を助けてくださる。人はその神の訴えを、「苦しみ」として感じ取っているということである。ということは、「苦しみ」こそ、神への最高の意識であって、それは神からの励ましなのである。
「苦しみ」は神からの励まし
神が人の「罪」(苦しみ)を負い、それをご自分の「苦しみ」として人に訴えてくださる。そのおかげで、人は意識できなかった「苦しみ」を意識できるようになり、危険な状態にある自分を知ることができる。ということは、「苦しみ」は神からの励ましであって、人は神を信じる信仰だけでなく、神による「苦しみ」をも賜ったのである。
あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。(ピリピ1:29)
このように、「苦しみ」は神からの励ましである、というのが「苦しみ」の真実である。
「苦しみ」の真実
「苦しみ」を人の側から見ると、人は漠然とした「不安」には耐えられないので、「不安」を見える困難に投影するという話になる。しかし、その際の投影は、神が覚える「苦しみ」を人に訴えているからこそできる。そのおかげで、人は「苦しみ」を解決しようと、見える困難に「不安」を重ね、見える困難を解決することで「不安」を処理しようとする。
ただし、その処理の仕方は見当違いの方法である。しかし、神が見えないためにそうしてしまう。いずれにせよ、神が見えないために、「苦しみ」を処理する際は、まるで自分一人が苦しんでいるように思えてしまうが、気づかないだけで、土台の神も一緒になって苦しんでいるのである。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ」(イザヤ63:9)。
一緒に苦しむことができるのは、神が人を真剣に愛しておられるからである。神は人を命懸けで愛するが故に、人が意識できない「苦しみ」(罪)を自ら喜んで負い、一緒に苦しみ、それを人に訴えることができる。まさしく人が覚える「苦しみ」の真実は、人に対する神の愛の証しなのである。
この神の愛の行為を見える形で示したのが、キリストの十字架である。なぜなら、キリストは十字架で人の「罪」(苦しみ)を負い、意識できない「罪」が人を死に至らせることを、自らが死ぬことで人に意識させ、人を助けようとされたからである。そのことで、神が人をどれだけ愛しているか、その事実も明らかにされた。
この十字架のおかげで、人は意識できなかった罪の「苦しみ」を意識できるようになり、同時に神の愛も知り、心を神に向けることが可能となった。こうして、キリストの十字架の打ち傷で、人の「苦しみ」は癒やされることになったのである。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪(苦しみ)をその身に負われました。それは、私たちが罪(苦しみ)を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(1ペテロ2:24)※( )は筆者が意味を補足。
このように、「苦しみ」は神からの励ましである。「苦しみ」は、決して神が責めているのではなく、励ましているのである。神が、「心を神に向けなさい!」と真剣に励ましてくださっているからこそ、「苦しみ」を覚える。それ故、「苦しみ」の先に喜びが待っている。
この苦しみのときに、彼らが【主】に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。(詩篇107:6)
まとめ
人が「苦しみ」を覚えるのは、人である「精神」が、「魂」からは「永遠性」の情報を受け、「体」からは「有限性」の情報を受け取るので、心を「永遠性」である神に向けられないことに起因する。この状態は神と分離しているために、放置すれば人は滅ぶしかない。
そこで神は、人が心の奥底で覚えるようになった「苦しみ」を背負い、それを訴えてくださる。そのことで、人は「苦しみ」を見える困難に重ね、見える困難に「苦しみ」を覚えるようになったということである。これが、見える困難に「苦しみ」を覚えるメカニズムである。
ところが、人は神が見えないために、「苦しみ」を意識できるようになった見える困難に、「苦しみ」の原因があると錯覚するようになった。しかし、原因は心を神に向けられないことにあるので、人がそれに気付くまで、神は愛をもって、人の「苦しみ」をご自分の「苦しみ」とし、人に訴え続けてくださる。
このように、「苦しみ」の真の原因は、見える人との関係の困難や、見える仕事の困難や、見える体の困難にあるのではなく、心を神に向けられない「罪」の状態にこそある。では、どうすれば心を神に向けられるのだろう。それが、次のテーマになる。(続く)
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