人はなぜ「苦しみ」を覚えるのか。その原因はどこにあるのか。人は人との関係が困難になると「苦しみ」を覚えるので、「苦しみ」の原因は人間関係にあると思うが、本当にそうなのか。
また、人は困難な出来事に直面しても「苦しみ」を覚えるので、「苦しみ」の原因は困難にあると思うが、本当にそうなのか。しかし、そうでなかったのなら、「苦しみ」に対して「的外れ」の対応をすることになる。
そこで思い出すのが、米国の大統領ジョージ・ワシントンの話である。彼の時代、病気の原因は人の血にあると信じられていたので、病気になると血を抜く治療が行われた。そのため、彼が大統領を辞めて2年後に風邪をひいたときも、主治医は彼の血の半分近くを抜く治療を行い、それが原因で彼は死んでしまった。
今では考えられない治療だが、当時は当たり前のように行われていた。これと同じことが、「苦しみ」の原因を見誤ると起きてしまう。そこで、ここでは人の心が覚える「苦しみ」の真の原因を探り、正しい解決を目指す。最初は、「苦しみ」の原因を探るところからである。
なお、聖書の引用は新改訳聖書第三版を使用する。そうでない場合は、その都度聖書訳名を表記する。ただし、聖書箇所の表記は、新改訳聖書第三版の表記を基に独自の「略語」を用いる。
-「苦しみ」の原因-
人は、「苦しみ」の原因は見える困難にあり、困難が自分を苦しめていると思い込んでいる。例えば、親しい人から悪く言われたりすると、その人との関係を築くことは困難になり、「苦しみ」を覚えるので、「苦しみ」の原因は相手にあると思い、怒りを覚える。
そこで相手を責め、相手に謝罪させることで困難になった関係を改善し、自分の「苦しみ」を解決しようとする。これが、この世での定番である。しかし「苦しみ」の原因は、本当に見えるところの困難にあるのだろうか。それを探ってみたい。それには、人とは何かを知る必要がある。
人とは何か
人とは、「体」からの情報を認識し、思考する「精神」(意識)である。「精神」が認識できるのは、変わらない「物差し」に支えられているからである。物差しがなければ、何も認識できない。物差しがあるから、良いとか悪いとかいった判断ができる。
また、「精神」が思考できるのは、目的地に向かって動かす「運動」に支えられているからである。目的地に向かって動いていなければ、何も思考できない。目的地に向かって動いているからこそ、そこに至るにはどうすればよいかと思考ができる。
従って、「精神」が機能するには「物差し」と、目的地に向かう「運動」とに支えられる必要がある。そうでないと、「体」が持ち込む情報を認識し、思考することはできない。
そこで、神は最初に人の体を大地のちりで造り、そこに「精神」(意識)が機能するために必要な「物差し」と、目的地に向かう「運動」の両方を兼ね備えた「いのち」を吹き込まれた。それによって「精神」が機能するようになり、人は生きるものとなった。その様子が、聖書に次のようにつづられている。
神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。(創世記2:7、新改訳2017)
吹き込まれた「いのち」は三位一体の神の「いのち」なので、原語を見ると複数形になっている(「ハイイーム」[חַיּׅים])。そして、その「いのち」が「魂」と呼ばれるものであり、人を支え動かしている。つまり、人である「精神」は、「魂」と「体」によって機能する。このことは、イエスの言葉からも知ることができる。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(マタイ10:28、新共同訳)
以上のように、人は神の「いのち」に支えられ、生かされている存在であり、神と人との関係は、例えるなら、神がぶどうの木であれば、人は「枝」という関係である。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5)
神は、人の土台となることで(ぶどうの木)、人を神と連続した者として造られた(枝)。そのため、土台の神の「いのち」が提供する「物差し」は「神の思い」となるので、人は「神の思い」を知っている。それで、人は「神の思い」の流れを慕い求め、「神」を目指す。こうして、神の「いのち」である「魂」は、「神」を目的地として人を動かす「運動」となるので、鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、人は神を求めて生きる。
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。(詩篇42:1)
まことに「魂」が、すなわち神の「いのち」が、人に目的地を示し、そこに向かって人を動かしている。これは、神が人に呼びかけ、人をご自分のもとに引き寄せようとしておられることを意味する。
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だが、ここに疑問が生じる。人の造りは神と連続性があって「一つ」であるにもかかわらず、なぜ神は人に呼びかけ、人をご自分に引き寄せようとするのかという疑問である。
確かに「人の造り」は神との連続性があるが、神は人に独立した「人格」を与えたため、人の「人格」と神の「人格」との交わりは、「人の造り」の連続性とは別の話となるので、神は人に呼びかけられる。それは、体の連続性がある肉の親と一緒に暮らす家族であっても、心が自動的に通い合うわけではないのと同様である。
心が通い合うためには会話が必要である。それで、神は人に呼びかけ、目的地の神に向かって人を動かす運動を展開し、人はそれに答えるという形で、神との会話が行われる。その神からの呼びかけは、神の「いのち」すなわち「魂」が担当する。
「魂」は目的地の神を人に示し、神に向かって人を動かす。「神よ、わたしの魂はあなたを求める」(詩篇42:2、新共同訳)。これに人が応答することで神との距離が縮まり、友と呼ばれる関係になる。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハネ15:15、新共同訳)。ここに、神が人を造られた目的がある。それは、人と友として生きることである。
このように、人とは、神によって生かされ、神に向かって動かされている存在である。
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。(ローマ11:36、新共同訳)
ここで重要なのは、人は「魂」が展開する運動に押され、「神に向かっている」ということである。これが分かれば、「苦しみ」の真の原因も明らかになる。
「苦しみ」の真の原因
人の認識を支え、人の思考を可能にしているのは、神の「いのち」による「魂」である。「魂」は、認識に必要な「神の思い」を発信し、思考に必要な運動を展開する。その運動は、神を目的地とし、人を誘導する。まるでカーナビのように、目的地に到着するまで誘導し続ける。人が神と友となるまで、正しい道をうしろから語り続ける。
あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。(イザヤ30:21)
この「魂」の働きは誰にも止められない。そのため、アダムの罪に伴い、「死」が入り込み、神と人との間に「隔ての壁」ができてしまっても、言い換えれば、神が見えない遠い存在になっても、「魂」は「隔ての壁」を人に乗り越えさせ、神と人との距離を縮めようとする。そのようにして、目的地の神を目指して人を動かし続ける。
それは、紛れもなく神に向かって人を後ろから押す聖霊の風である。であれば、聖霊の風に押されているにもかかわらず、心を神に向けずに「的外れ」の方向に進むとどうなるだろう。それは当然、聖霊の風に逆らうので、人は「苦しみ」を覚える。
ヨットは、風に押されているときは順風で楽であっても、風に向かって動こうとすれば途端に難航する。人は追い風に乗って歩けば楽だが、向かい風の中を歩けば苦しくなる。これらは自明の理であるように、「魂」からは神に向かって人を動かす聖霊の風が吹いているので、その風に逆らい、神とは別のものに向かおうとすれば、人が「苦しみ」を覚えるのは当然のことである。
このように、「苦しみ」の真の原因は、心を神に向けられないことにある。それはつまり、神との距離が縮まらないということである。しかし人は、「苦しみ」の原因は見える困難にあると思い込んでいるので、「的外れ」の対応をしてしまう。
そこで次に、「苦しみ」の原因は見える困難にはないことを知ってもらうために、どうして見える困難に人は「苦しみ」を覚えてしまうのか、そのメカニズムを見ておきたい。(続く)
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